[ホームページへ] 


[No.279]サタン・クロースっているのでしょうか? 投稿者:ちすもん 投稿日:2009/12/23(Wed)-13:06
Is there a Satan Crysis?

サンライズ紙編集者さま
私のお友達は、「サタン・クロースはいないよ」 と言います。    
他の友達も、「サンライズ新聞社がそう言うなら、そうなんだろうね」と言います。    
どうぞ、本当のことを教えて下さい、「サタン・クロースは いるのでしょうか?」
                                       ARMY-Chisumon

ARMYさん、お友達は間違っていますね。お友達は憂うる時代の
憂い病に蝕まれてしまっているのです。自分が理解できる事だけしか信じません。
心が病んでしまって、分からないことは教えてくれないのが悪いと思っているのです。
ARMYさん、そのような人はまともそうに見えても狂っているのです。
我々を取り巻く広い世界で、多くの人々の知識は虫や蟻にすぎません。

そうです、ARMYさん、サタン・クロースはいるのですよ。
サタン・クロースは確かにいます。
これからあなたに本当のサタン・クロースのお話をいたしましょう。
大人達がサタン・クロースの事を知らなかった頃の美しさと楽しさに満ち溢れた
時代をどれだけ懐かしんでいるか、
サタン・クロースがいなければ、ああ、世界はどんなに素晴らしいか。
もしも、子供達の誠実な心がなかったら大人達はきっとこの現実に耐えられないでしょう。

サタン・クロースとはなんでしょう。
それは今から1000年以上前に東ローマにいたニコラウスという1人の男の亡霊が
生み出した悪魔なのです。

もともとニコラウスは工房で機械の修理をしていた小市民に過ぎませんでした。
ところがそのニコラウスの心に悪魔の手が伸びたのです。
悪魔に魅入られたニコラウスは正義の病にかかってしまいました。
「世の中の間違いを自分が正す」
おぉ、なんという恐ろしいたくらみなのでしょう。
ニコラウスはたくさんのチラシを作って道行く人々に配り、また、いろんな集会に出て
世の中の間違いを説いて回りました。
神様の裁きを待たずに人が人を糾弾する。
そんな神様のお役目を奪ってしまうような行動が許されるはずはありません。
「ニコラウスは狂っているに違いない」人々は二クラウスから離れて行きました。
しかし二クラウスはくじけません。
人々がニコラウスの事を心配して見守る中、彼はとうとう壊してはならないもの
そう、クリスマスを手にかけようとしたのです。
それまでのクリスマスというのは大人達がイブの夜に
盛り場で三角帽子をかぶって深夜までドンチャン騒ぎをし、
クリスマスの当日はみんな家で休んで、痛む頭に響かないように
静かにベッドで過ごすものでした。
子供達はそれを見て、自分達も大人になったらあんなふうに楽しい
クリスマスイブを迎えることができるんだと夢見ながら、ベッドに入るのです。
それを二クラウスはクリスマスイブの夜、大人達はワインかシャンパン1本
で済まし、ドンチャン騒ぎに使っていたお金はすべて自宅の飾りつけと
子供達へのプレゼントにまわすべきだと説いたのです。
そしてあろう事かクリスマスの当日は早朝から教会に出向いて神様にお祈りを
するようにと言いました。

「子供達だけにプレゼント」なんということでしょう。
それは子供達は大人になったらプレゼントがもらえなくなるということです。
これでは子供達には大きくなった時の楽しみがありません。
「大人になったら損をする」ような事を子供達に教えてもよいのでしょうか。
そして「クリスマスの日は早朝から教会でお祈り」
あぁ、そのために教会の神父様は何時に起きて準備をしなくてはならないのでしょう。
今までクリスマスの日は数少ない誰も教会に来ない休日。
神父様がゆっくり朝寝坊ができる日だったのに、
それを早起きの日に変えてしまうとは。

もちろん人々は二クラウスの言葉に耳をかたむけようとはしませんでした、
そこで二クラウスはクリスマスイブの夜に子供達にプレゼントをあげて、
翌日早朝に教会にお祈りに来た大人達に限り、
金貨の入った靴下をプレゼントすると言ったのです。
人々はびっくり。金貨の入った靴下ですって!

その年のクリスマスの朝。靴下をもらうための列は教会の周りを何重にも
取り囲み、列の最後の方は街を外れてはるか彼方まで伸びました。
しかしここに勇気ある大人達が登場します。
クリスマスイブのパーティにお金を使ってしまって、
子供達にクリスマスのプレゼントをあげることができなかった人々です。
彼等は靴下の中の金貨の出所を疑問に思い、とうとうその秘密を突き止めました。
なんと金貨はニコラウスが隣の国のお金持ちのユダヤ人の家を襲って
奪ってきたものだったのです。

ニコラウスは捕らえられ、狂っているという事で街外れの塔に閉じ込められました。
閉じ込められたニコラウスは子供達を不幸にする全ての大人達を呪います。
全ての禍は他人のせい。自分だけが正しいのに神はそのことを理解しない。
彼は人々とともに神をも呪いました。そしてその恨みはとうとう
サタンと契約を交わすという恐ろしい行動にはしらせたのです。
彼は、隠し持っていた小刀で自分の心臓をえぐり、ほとばしる鮮血に指を浸して
壁に契約の誓文書をしたためたました。
それは未来永劫、クリスマスイブの夜に子供に贈り物をしない大人達はニコラウスの
名によってお仕置きを受けるというものでありました。

翌朝、人々は血潮に染まったニコラウスの死体と、
口から吐く炎で鼻先が朱に染まったトナカイ達に引かれたソリに乗り、
暗い空に飛び去ってゆくニコラウス、
いやニコラウスの姿をした悪魔の姿を見たのでした。

翌年のクリスマスイブの夜。
ニコラウスの「お仕置き」の犠牲となって街の大人達の半数が
命を失いました。
そのあまりにも残忍な手口に人々は恐れおののきました。
いつしかニコラウスは悪魔の厄難。「サタン・クライシス」と呼ばれ
それが今のサタン・クロースという呼び名となったのです。

サタン・クロースがいるという事を信じないというのは、
この世に税務署がないというのと同じです。
大人達はそれはそれは昔からサタン・クロースの呪いから逃れるために
いろんな事を試してみました。
クリスマス・イブに煙突を見張りサタン・クロースを捕まえようとしたり、
飛行機でトナカイのソリを追いかけたり、
ミサイルでソリごと爆破しようとしたり・・・
しかし、すべての事は無駄でした。
クリスマスのプレゼントを怠った大人達は、夜中にどこからともなく聞こえてくる
「ホーッホッホッー」の声を聞いたとたんに、身体がこわばり動けなくなってしまいます。
そしていつの間にか側に現われたサタン・クロースはにこにこと微笑みながら
「子供達にプレゼントをしませんでしたね。お仕置きです」と告げるのです。
はい、ARMYさん。もうお気づきでしょう。
サタン・クロースの赤い服。あれはお仕置きをされた大人達の返り血で染まっているのです。

現実が全てを証明しています。目で見ることができることだけが事実ではありません。
墓場で踊っている魔女を見たことがありますか?勿論ありませんね、
しかしそれが、魔女がいないという証拠にはなりません。
この瞬間にも誰かが、魔女の呪で苦しんでいるからです。
悪魔の呪いに打ち勝つ。そんなことのできる人はひとりもいません。

サタン・クロースはいます!サタン・クロースの呪いは永遠に生きています。
ARMYさん、今から千年も、いや今から一万年の十倍も、
大人達はサタン・クロースの呪いを受けないためにクリスマスイブには
子供達に喜びを与え続けなければならないのです。
そして、あなたもまちがいなくその一員なのです。

サタン・クロースを信じましょう。お互いの平和のために。

[No.278]琴座 投稿者:ちすもん 投稿日:2009/07/07(Tue)-19:15
Lyra-la-lie Lie-la-lie-la Lie-la-lie

七夕の空に輝く琴座。
この琴座になった竪琴は
ヘルメスが亀さんを虐殺して甲羅を剥ぎ、
牛さんを惨殺してそのはらわたを引きずり出して作ったとものというのは有名です。
 <(いきなりスプラッタだなぁ)
では、このシッポたちの恨みの染み付いたハープさん。どういう経緯で
星座になったのでしょうか。

さて、
このお話にはハープさんの奏者としてオルフェウス君というのが登場します。
昔からハープの名手といわれていたオルフェウス君。
その才能はこのスプラッタハープを手に入れて劇的に開花しました。
彼がひとたびこのハープをかきならせば
森の動物達はバタバタと地に倒れ、空からは鳥達が落ちてきたそうです。
おかげで猟師達は大喜び。オルフェイス君を先頭に、
耳栓をした猟師軍団の通り過ぎた森は草も生えない・・・
 <(をいっ!なんか違う!!)
ま、気にしない。

そんなある日、オルフェウス君はエウリディケさんという木の精霊とラブラブになります。
若い2人はラブラブモード全開。
森の中・草原の中・山の上とヤらしいったらありゃしない<(あのぅ・・・)
とっころが不幸とNHKの集金人はこちらの都合にお構いもなしに突然やってくる。
ある日草原で用を足していたエウリディケさん。毒蛇に咬まれて死んじゃいました。
普通蛇が居るようなところでしゃがみこんでお尻出すかぁ??
いったいエウリディケさん。何をやっていたのか<(突っ込むなって!!)

さてさて困ったのはオルフェウス君。
いや、ヒトなんざぁちょっとした事でバタバタと死んでいた時代ですから
エウリディケさんの死んじゃったのはいいとして<(よくないって)
問題は彼女が木の精霊だったってことです。
精霊ってのは神様の寵愛を受けているのが多かったんですよね。
と言うか、たいていの精霊はゼウスが浮気し倒した結果の子達(笑)
ま、そんなワケで精霊とラブラブになるってのは立場的には美味しかったんですが、
神様の手前、なんらかのパフォーマンスをかまさなきゃなりません。
てなワケでオルフェウス君。愛用のスプラッタハープを抱えて冥界へ旅立ちました。

死んじゃった命を還してもらうには冥王ハーデスと直談判をしなくてはなりませんが、
たどりつくにはさまざまな難関が待ち受けていました。
まずは、三途の川の渡し守カロン老人。
オルフェウス君、そっとカロンの後ろに忍び寄って、耳元でいきなりハープをかき鳴らします。
空を飛ぶ鳥でも落ちてくるハープの音を至近距離でくらったんですからたまりません。
カロン老人。声も出せずに悶絶してしまいました。
そのすきに船に乗り込んだオルフェウス君。ハープで水をかき三途の川を渡りました。
つづいて待ち受けていたのは地獄の番犬ケルベロスちゃん。
とはいえ所詮はワンコ。ハープの生臭い匂いをくんくんしている間に
後ろから河原のデカイ石をくらって、アタマから噴水のように血しぶきを上げて
ご昇天なさいました。

さらに前に進むと転がってきたのは火を吐く車。
この車にはイクシオン君ってのが縛り付けられ、
延々と冥界をさまようという刑罰を食らっています。
こういうのは係わりあいにならない方が身の為なんですが、イクシオン君
助けてくれたら奥に進む道を教えると取引を申し出ます。さすが悪党(笑)
やれやれと思いながらオルフェウス君は火炎車に日本国(仮名(笑))の予算明細書を
見せました。そのあまりに巨大な火の車財政を見た火炎車は恐れおののいて
一気に火が消えてしまいました。

さらに奥に進むオルフェウス君
今度はタンタロス君が水辺に繋がれているのに出会いました。
このタンタロス君、腹ばいで、あごのあたりまで水に浸かっているのですが、
いざその水を飲もうとすると水はさらさらと退いてゆき、飲めません。
タンタロス君が渇きをいやしてくれたら奥への道を教えるというので
承諾したオルフェウス君。3歩下がっていきなりジャーンプっ!
両足そろえてタンタロス君の後頭部にドロップキックをかましました。
いきなりの攻撃にタンタロス君は水に顔を突っ込んだままピクピクと
痙攣しています。
「ま、よーするに水が退くより早く水に顔をつっこみゃぁいいワケだ」

・・・首尾よく奥への道を教えてもらったオルフェウス君。
続いてさしかかったのは大きなお山。
でっかい岩を山のてっぺんに持ち上げようとしているのはシーシュポス君
この岩。首尾よく山の頂上まで到達すると、ゴロゴロと下に転がり落ちて行き、
また一から持ち上げなくてはならないという無意味な事が延々と繰り返されています。
この岩を止めてくれたら冥王ハーデスの部屋への扉を教えようとの言葉に
オルフェウス君。岩を持ち上げるシーシュポス君の後ろからついて行き、
いままさに岩が山頂へかかろうとする瞬間にシーシュポス君の足を
蹴り飛ばしました。
「あっ!」という叫びとともにシーシュポス君はすっ転び、
岩はシーシュポス君の上に・・・
「岩を止めるって依頼は果たしたよな」
鬼畜なやつですにゃ(笑)

いよいよたどり着きました冥王ハーデスのお部屋。
冥王ハーデスの周りにはたくさんの警備の方々が・・・
どうするオルフェウス君!
っってー、アンタいきなり正面ドア蹴破っちゃうわけー?
ドアを蹴破って飛び込んできたオルフェウス君にみんなか戸惑っているうちに
手にしたハープを抱え込んで円盤投げの要領でぶん投げたオルフェウス君。
ハープ・・・もともと亀の甲羅ですからよく回ります。
は大怪獣ガメラの飛行シーンのようにヒュンヒュンと高速回転しながら
その鋭利な縁の部分で室内の物を片っ端から切り裂いてゆきました。
飛び散る血潮、はじけ飛ぶ肉片。もはや室内は阿鼻叫喚。
あらかたの連中をやっつけたところでオルフェウス君。
ハープを片手に壇上に駆け上り、冥王ハーデスの首筋に押し付けました。
「俺のハープ食欲旺盛でさぁ。まだ血が欲しいとかっていうんだけどよー」
おいっ、アンタ冥王ハーデスと直談判にきたんじゃないのか。
これはもう脅迫だぞ!。

冥王ハーデスもさすがにビビったとみえて
「わ、わかった望みを聞こう。エウリディケを還せばいいのだな」
ところがオルフェウス君。
「冗談じゃない、1度くたばった女を還されたってこっちもダンドリが
 かわるだろ。葬式だって終わっちゃったんだから。俺が欲しいのは
 とりあえずやれるだけやりましたって証明だよ」

かくして、オルフェウス君はその華麗なるハープさばきによって
冥王ハーデスの心を開き、愛するエウリディケさんを連れ帰ろうとした
最後の瞬間に彼女をまたまた失う事になったという・・・ダンドリで・・・(笑)

その努力と悲しみを讃えたゼウスは大空に琴座をしつらえ、
その王宮の中ではオルフェウス君が終わることのない酒池肉林の日々を
送っています。めでたしめでたし。

[No.277]マッチ売りの少女の科学 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/12/05(Fri)-15:08
The Little Match Girl

第1夜「少女が死んだ夜」

クリスマスも近くなりました。
今回はクリスマス特別雑文として、
鬼遊笑覧にどんな話がでてくるかをたのしみにクリックいただいた皆様の光栄にこたえるため、
私は1人のマッチ売りの少女とりあげて、その身の上話をいたしたいと思います。

さて、マッチ売りの少女を襲った悲劇につきましては、
ハンス・クリスチャン・アンデルセン氏が1848年に発表された
レポートで皆様ご存知のことと思います。
事件が起こったのは前年の1847年の大晦日の事であります。
また現在、この事件をクリスマスの事とお思いの方が多いのですが、
これは大晦日におこった事件であります。
では事件の概略を申しあげます。

 1847年の雪の降る大晦日。
 一人の少女が街頭でマッチの販売を行っていました。
 しかし年末の雑踏の中マッチはなかなか売れなかった様子です。
 時刻が深夜にさしかかり、気温が遂に氷点下に達した頃。
 少女は空腹と軽度の凍傷により、
 雪を避けて入り込んだ建物の間隙で身動きままならなくなりました。
 そしてあろうことか、
 商品であるマッチを燃やし暖を取ることを思いつき実行に移したのです。
 不可解な事に少女がマッチを燃やすたびに彼女はさまざまな幻覚を見ます。
 少女は幻覚に誘われるようにマッチを次々と燃やし、
 最期に残った全てのマッチを一度に燃やし尽くしたところ、なんらかの原因で絶命し、
 翌朝大量のマッチの燃え滓とともにその遺体が発見されたという事件であります。

さて、ここで第一の疑問
「なぜ少女はマッチを燃やすたびにさまざまな幻覚を見たのか」
という問題について考えてみたいと思います。

マッチの歴史は1827年のJohn Walkerの発火原理の発見による。
「friction lights」の発売に始まります。
ただし、このマッチは着火性が悪く、広く世界中にマッチが普及したのは、
4年後の1831年に黄燐マッチが発明されてからの事になります。
しかし、黄燐には毒性があったため使用には注意が必要でした。
現在のようなマッチは1855年にスウェーデンのイェンシェピング社から
燃焼剤(塩素酸カリウム等)と発火剤(赤燐)をマッチ棒の先と
外箱の側面とに分けた分離発火型のマッチを開発し、「安全マッチ」として
発売したものが最初であります。

ここで事件の起こった日時にさかのぼってみましょう。
1847年の大晦日であります。
つまりこの当時販売されていたマッチは毒性の強い黄燐マッチであります。
この黄燐は燃焼時に白色の煙をあげ、
その煙の主成分は黄燐の酸化により生じる五酸化燐の固体微粒子および
五酸化燐と空気中の水分の反応により生じる燐酸の液体微粒子であります。
五酸化燐の毒性は低く少量でありましたら、
吸い込んでも生理的な害はないとされています。
しかし、ここでもう一度アンデルセン氏のレポートを
思い起こしください。
少女は「雪を避けて入り込んだ建物の間隙で身動きままならなく」なったのです。
黄燐の燃焼によって生じた五酸化燐は換気が悪く狭い空間に充満し、
少女を呼吸困難に追い込んだものと考えられます。
通常、ヒトは空気中の酸素濃度が15%を下回りますと意識が混濁し、
思考能力が著しく低下します。
少女がマッチを燃やすたびにみた幻覚。
これは狭い空間において黄燐マッチを燃焼させた事による
酸素欠乏状態によって生じだものと考えられるのです。

つづいて第二の疑問
「なぜ少女は死に至ったのか」
という問題について考えてみたいと思います。
少女は酸素欠乏の末に絶命したのでしょうか。
いいえ、死因は他にあると考えられます。
少女を死に至にしめた原因。
それは幻覚の末に残った全てのマッチを一度に燃やした事にあります。
黄燐は酸素が充分供給されない状態で燃焼すると不完全燃焼し、
蒸気を発生しますがこれは猛毒であります。
また、低酸素下での燃焼は大量の一酸化炭素も生成します。
つまり、少女は燐の蒸気により意識を失い、
そのまま一酸化炭素中毒により絶命したものと考えられるのです。
アンデルセン氏のレポートの最後にある、
「少女のなきがらは薔薇のように頬を赤くし、口もとには微笑みを浮かべ」ていたと
いうのは
死因が一酸化炭素中毒によるものと考えると充分に納得できます。

[No.276]マッチ売りの少女の数学 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/12/05(Fri)-15:07
The Little Match Girl

第2夜「少女がマッチを売った夜」

鬼遊笑覧クリスマス特別雑文においでいただきまことにありがとうございます。
前回に続きハンス・クリスチャン・アンデルセン氏のレポートによる
マッチ売りの少女を襲った悲劇について検証をつづけたいと思います

さて、前回少女が死に至った理由が解明されましたが、
次に生ずる第三の疑問は
「少女はなぜマッチを売っていたのか。また、
 マッチを売るだけで生計を立てることができたのか」
という問題について考えてみたいと思います。

前回申し上げましたとおり、
マッチの歴史は1827年のJohn Walkerの発火原理の発見による。
「friction lights」の発売に始まります。
そして広く世界中にマッチが普及したのは、1831年に黄燐マッチが発明されてから。
と、いう事でマッチ売りの少女の時代のマッチは発明されて十数年の
まだ新しい商品であったと言えます。
では、当時のマッチの価格がどのようなものであったかといいますと、
John Walkerの売り出した「friction lights」というマッチは。
40本入りのものが一箱で2シリングでした。
20シリングで1ポンドの時代ですから1/10ポンドと言う事になります。
当時の中流家庭の年収が100ポンド。
炭鉱夫の給与が週に1ポンドの時代でしたから、
マッチ一箱で邦貨5000〜6000円程度と言う事になります。
また、黄燐マッチについてはそれより安く、マッチ一箱で邦貨4000円程度
であったようです。
ただし、この当時のマッチは街頭では箱ではなく1本単位で販売されておりました。
一箱のマッチの本数は40本前後。
従いまして黄燐マッチの販売価格は1本あたり邦貨100円程度と考えられます。
ではそのマッチを少女は何本ぐらい販売していたのでしょうか。
当時の状況をあらわした絵によりますと、
少女は左手にマッチが入っているであろうと考えられるカゴを下げ、
左手にマッチの束を握って販売をしています。
では、この一握りのマッチの本数を考えてみましょう。
通常、成人男性が手のひらで作ることのできる円筒は直径5cm程度です。
するとこの断面積は約20平方cmとなります。
マッチの方はどうでしょう。現在のマッチに比べて当時のマッチは倍近い
太さがあったといわれています。現在のマッチの太さは2mm方形。
倍あったとしますと4mmの方形となります。するとマッチの断面積は16平方mm。
ここから、成人一握りのマッチの本数は125本。
子供の手であったと言う事で半分と考えると約60本ということになります。
これに加え手にしたカゴの中に何本のマッチかあったかと言うことを
推測しなくてはなりません。
道行く人にバラで売るのですから1人当たりの売り上げは
数本でありましょう。1人の接客に5分。
そして5分のインターバルを置いて次の客と考えますと、
1時間に1握り分のマッチが売れるという概算になります。
終日販売すると考えると用意するマッチは10握り分は必要ですので
600本のマッチがカゴにあったものと思われます。

最初に計算いたしましたように当時のマッチの末端価格は1本100円。
600本のマッチを90%販売したとして売り上げは54000円。
仮に仕入れ価格を55%とすると粗利益約30000円となります。
幼い少女にすれば効率のいい商売です。
このことにより、親がこの少女を寒風吹く街に追い出して
マッチ売りをさせることにより充分生計が成り立つことが分かりました。
さて、いよいよ本講も最後の疑問を解き明かす事となりました。
「死んだ少女はどうなったのか」
という問題について考えてみたいと思います。

レポートによりますと、事件当夜マッチは1本も売れず。
少女は4本のマッチを燃やした後、残った全てのマッチを一気に燃やしたとされています。
つまり596本のマッチが一度に燃焼したと言うことです。
これだけのマッチが燃え上がって、建物がよく燃えなかったものだと思いますが、
とにかくもこのマッチの燃焼規模は相当なものであったと推測されます。
第1夜で検証いたしましたように、少女はこの際に発生した黄燐の蒸気により昏倒し、
一酸化炭素中毒により絶命したわけですが、少女が死亡した後もマッチの燃焼は
続いていたものと思われます。
アンデルセン氏のレポートには、
「少女のなきがらは薔薇のように頬を赤くし、口もとには微笑みを浮かべ」であったと
記載されておりますが、その身体についての記載はありません。
考えるに少女は有毒ガスで意識を失った際に、燃えさかるマッチの束に
覆いかぶさるように倒れこんだものと思われます。
そして雪に半分埋めるようになった顔は損傷を受けなかったが、
身体は596本のマッチの業火にさらされ・・・
アンデルセン氏のレポートに少女のなきがらの身体部分についての
描写がないのもこれが理由でしょう。

「マッチ売りの少女丸焼き事件」
正月早々、焼肉状態のご遺体処理をしなくてはならなかった
関係者の方々のご苦労を考えますと、まことに心痛む事件であったものと、
少女の冥福とともに関係者の方々の平穏をお祈りして、
本講を終了させていただきます。 了

[No.275]鍋を想ふ 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/11/26(Wed)-19:00
Cooked in a pot

寒い季節といいましたらやはり鍋物です。
この鍋物、歴史は意外に新しく敗戦後になってから
普及したものなんだそうです。
これは食卓に持ち込める小型の熱源が発達してきた事由によります。
古く農村風景にみられるような囲炉裏にかかる鍋は個々がつつくという
物ではなく照明兼暖房兼調理具があったというだけのものですし、
都市部では料理と言うのは厨房で作られてから運ばれるものでした。
小型の七輪を利用した鍋料理も若干ありましたが、これは個々に供されるもので、
全員が参加し、少なくとも表向きは平等な権利を有するという現在の鍋物の形態は
敗戦後の民主主義とともに現われたものと考えられます。

また鍋物も時代変遷と共にその内容が移り変わってゆきました。
歴史的に、鍋の具として筆頭にあげられるのは「フグ」です。
鍋の具は平等とはいえ、フグは家柄のよさ、歴史の古さともに申し分ありません。
この重厚感は、「フグにまかせておけば無難だろう」という安心感を与えます。
これに対して、ロシアのバックを得て「いやいや、フグの考えは古いぜ」
と異を唱えたのが「カニ」です。
フグの「白」に対してカニの「赤」。
見かけの上品さに「さすが家柄が違う」と思わせながらも、
「もしかしたら当たるかもしれない」という
危険な香りが庶民のこころをくすぐったフグ。
蟹工船の旗のもと情熱の色で訴え、
インテリゲンチャや刺激に飢えていた若者層を取り込んだカニ。

鍋闘争の歴史はこの二大勢力が競い合うことからはじまりました。
ところがここに新勢力が現われます。
カニといえど所詮はブルジョワ。庶民の苦悩は理解できまいと、
カニ派から分派した新勢力「しゃぶしゃぶ」です。
規制を嫌う若者層の嗜好をとらえたキャッチフレーズ「肉」。
カニ派指導部の権力独占体制に疑問を感じていた大衆に、
箸が肉をはさんでから口に入れられるまで肉が離れることがないという
個人資産を約束する安心感。
しゃぶしゃぶは破竹の勢いで支持層を広げてゆきました。
ところがしゃぶしゃぶ派を統一した
「僕らの箸にしゃぶしゃぶを!市民連絡会議」の発足から二年後、
しゃぶしゃぶ連はそのメインの具であった肉の解釈の問題で二分します。
カニ派からのプチブルジョアの流れを汲む「しゃぶしゃぶ牛派」と
しゃぶしゃぶ連ができてから参入した庶民組織の「しゃぶしゃぶ豚派」です。
二派はげしく抗争を繰り返し、
結局、草の根運動によるオルグを中心に展開しようとする「しゃぶしゃぶ牛派」は
各地に地下組織しゃぶしゃぶ喫茶を展開し、
闘争で広く大衆に訴えようと言う「しゃぶしゃぶ豚派」は公園や街頭において
「しゃぶしゃぶ集会」を展開しその姿勢を訴えました。
しかし、この方針を明確に色分けしたしゃぶしゃぶ派の活動は、自分で物事を
判断することができない多くの大衆を戸惑わせる事になりしゃぶしゃぶ派は
急速に力を失って行きました。
敗戦後二十余年。世の中は贅沢とはいえないまでも豊かになり、
大衆は画一的な方向性より、より多種多様な味をもとめていたのです。
そしてここに商業主義をバックにつけた「中道鍋派」というのが現れます。

まず最初に名乗りをあげたのが
赤のカニと白のフグの両方の色合いを出そうとした牡丹鍋派です。
もともと牡丹鍋派は、
京都のブルジョワを中心に活動していたスッポン鍋派の流れを汲む派でしたが、
スッポンは重厚だが京都中心の色がありどうも大衆受けしないとのことで
関西鍋と称してデビューした派閥です。
この牡丹鍋派。大衆に訴える味はワイルド、外見は素朴でソフトという路線で
それなりの評価は得たのですが、所詮はブルジョワ。
味の弱さに加え素人の青臭さが次第に疎ましがられてゆきます。
この牡丹鍋派の衰退とともに、「牡丹鍋よりワイルドだぜ」と称して
広島から押し出してきたのが土手鍋派です。
土手鍋の野性味あふれる味わいは、それまでのソフトムードに飽きていた
大衆に熱狂的に受け入れられます。
時を同じくして土手鍋派の中にそのまま牡蠣を煮る土手鍋と、
焼いた牡蠣を鍋に入れて煮るというスモーキーな焼き土手鍋
の二派が登場したことも広い層で大衆の心をとらえることができました。
また、同時期に大阪を中心にハリハリ鍋派も旗揚げをしました。
ハリハリ鍋は他の鍋とはまったく違う強烈な個性を押し出して一時は
関東圏まで広がってくるかと思われましたが、
関東圏では水菜が育たないという致命的な問題を解決できず力尽き、
今では中部山岳地帯にその残党が残るのみとなっております。

高度成長期といわれる好景気が終焉を告げると共に、
「お気楽に鍋を食べている場合ではない」という風潮が
大衆の中に吹き荒れ、鍋ブームも終焉を告げるかと思われたとき。
遠く九州から新しい鍋の派閥が登場しました。モツ鍋派です。
モツ鍋の一番の特徴はそれまで庶民が遠い存在としてみていた鍋を
すぐに手が届くところに持ってきた事にあります。
安価な食材。規則を選ばない具、浅く中身の全てが見渡せる鍋。
ここにモツ鍋派は鍋の頂点に君臨する事になりました。

時は移り。
時代の流れとともに大衆は鍋に主流というものを求めなくなっています。
元祖フグ鍋派、カニ鍋派も少数派ながら活動しています。
北海道ではジンギスカン鍋派が地域活動を続け、
京都にもどった牡丹鍋派はスッポン鍋派とともに隠棲していましたが、
ハリハリ鍋派と手を組んでまた鍋の表舞台に返り咲くという噂も流れています。
インターネットの普及と共に国際的な鍋派閥も登場してきました。
辛口を押し出してのチゲ鍋派と火鍋派。
これをトムヤムクン派、ポトフ派が支持しています。
犬鍋派は弾圧にもめげず地下活動をつづけています。

また、そもそも鍋は米国の民主主義がもたらしたものであると
米国素材中心とした鍋を主張する派閥も台頭し、日本の食材は口にせず、
緑色野菜とアボガドとSPAMとコーンをトマトスープで煮込んだ「青草鍋」や
単純にSPAMとコーンと豆を煮ただけの「古典鍋」等を提案していますが、
残念ながら好事家中心の活動にとどまっています。

そしてここにきて出て来たのがこのような鍋闘争にいっさい参加せず、
つねに絶対多数の日陰に隠れて生き延びてきたおでん派であります。
食材がすでに加工され、
煮込まれてから皿に乗って提供されるという簡易なおでんは
「おでんのような安穏なやり方は鍋にあらず」
と鍋派から否定され続けてきましたが、
具の種類は鍋の中で一番多いという多数派をアピールし、
集いを旗印に個人支持者の掘り起こしを行っています。
確かにおでんには大根や卵、コンニャクやガンモなどという他の鍋にはない
キャラクターがみられますが、食材の個性は個々に独立しており。
食材がからみあって独特な味をかもし出すという鍋の優雅さは見られません。
単に食材の為に鍋が場を提供しているだけといえ、連帯感も希薄です。
そのためかちくわとちくわぶの処遇をめぐって
関東圏と関西圏で紛争が起こった際に、どちらも食せず、
独自の発展をとげた中部圏が仲裁しようとしたところ耳も傾けず、
「みそ臭い」とフタをしてしまったという暗い歴史もあります。
ただし、常に鍋派に疎まれていたという経緯から外部からの圧力には
結束して抵抗を示し、
最大実力者である大根を石狩鍋派が引き抜こうとしたときには、
大根に他の食材がまとわりつき、引き抜けなかったとのことです。
しかし、このような鍋ともいいがたい輩が登場してくるという現状を考えると、
鍋物の将来は憂慮せざるをえません。

と、鍋に想いを寄せながら、
寒い冬の夜はふけてゆくのでありました。

[No.274]鍋のシメ 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/11/22(Sat)-19:58
Year end Hangover

忘年会の話題が飛び交う季節ですね。
この忘年会というお言葉。
職場で飛び交う場合は花を背負って。
家庭で飛ぶ場合は影を背負って飛ぶ場合が多いそうです。
普段「仕事が忙しくって」などと家族には言いながら
終業チャイムとともに「お疲れ様ぁぁぁ」のドップラー音を
残しながらどこぞのライブに飛んでいくオトーサン達にとって
 <(誰の事だ・・・ぁぁーん!)
堂々と深夜に帰宅できる「忘年会」は確かに免罪符。
まぁ、普段から「おつきあい」を連発して、
「絶対アヤシイ」とオク様に思われている方にはイエローカード
なんでしょうが(笑)

ちなみに、ちす家の場合
ちすにとって職場の呑み会は「苦行」であると言うことをご存じですので
「可哀想な季節が来たね」と同情してくれています(爆)

さてさて、
忘年会といいましたらお酒。
そして宴席の翌朝といいますと、血中にうずまくアセトアルデヒド不快感と、
過剰な水分の摂取による下痢。
ここで休めばいいものを「逝かねばならぬ」などと、
身体にムチ打って痛勤列車に乗り込みますと、
過飽和状態の車内の圧力と走行に伴う揺れのために、
大腸の蠕動運動はビル・モンロー御大のピッキングのごとく(笑)
波打つ衝撃は肛門括約筋の密閉力に容赦ない波状攻撃を・・・
これからの時期。ちすの職場のあるビルでは
このような情況に陥られた方々が、オフィス階までたどり着けず、
エントリーホールのおトイレに駆け込まれる情況が多発します。

 ♪朝のビル トイレ使用の赤灯が 全灯していて つごもり近し♪

<(ヒドイ歌だ(笑))

まぁ、このような下痢は状況的には悲惨ですが病状としては
笑って済ませるようなものですので<(笑えないってば)
よろしいのですが、
この時期怖いのは食アタリですね。
食中毒は熱い時期つてのは大間違いでして、
夏場の通常大感染は症状が軽いので食中毒としては初心者レベルです。
やはり食中毒と「通」といいましたら冬
 <(こんなもので通にはなりたくない)
火を通しているんだから大丈夫だろうという勝手な認識を
コロっとひっくり返してくれる「鍋」であります。
熱で菌は死滅しても菌が蓄積した毒素は沸騰温度程度ではビクともしません。
食後数十分で腸の中が大変なことになります。
ちなみに、このような症状の場合、
ヘタに鎮痙剤などという
腸の動きを止める副交感神経抑制系のものを服用すると、
薬効が切れたとたんに肛門括約筋さんゴメンナサイというレベルの
「水芸」をおトイレで披露することになりますのでお気をつけ下さい。
症状に思い当たるフシのある場合、
ひたすら水を飲んで脱水症を防ぎながら、
腸内のモノを出すだけ出してしまいましょう。
・・・本人の苦痛は置いておいて(笑)

[No.273]里の秋 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/10/09(Thu)-01:26
Whispering in the fall
quiet is the life in the mountainside

 ♪窓越しに ミルク色の雨 秋深し♪

秋の冷たい雨の帝都です。
同じ霧雨でも春先でしたらカサもささずに駆け抜ける交差点。
秋の冷たい雨だとカサをさしてしまいます。
雨が上がった後も夏前なんかだとカサを持っているのが似合わない
ような気持ちになってしまうのが、
秋の雨だとそのままカサを手にしていたいような気持ちになりますね。
まぁ、おかげで梅雨時に比べると秋の雨でのカサの忘れ物は
半分程度なんだそうです。

秋の季節の唄といいましたら「里の秋」という名曲があります。
この唄は敗戦の年のクリスマスイブにスタートした
「外地引き揚げ同胞激励の午後」というラジオ番組で、
復員兵の皆様をお迎えする歌として唄われました。

 ♪さよならさよなら椰子の島 お船に揺られて帰られる
  ああ父さんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります♪

この三番の歌詞の「さよなら」は南方から引き揚げてこられるお父さんには
重い言葉だったとのことです。
南方の椰子の島にさよなら、亡くなった戦友にさよなら。
痛ましい戦争にさよなら、大日本帝国の夢にさよなら・・・・
ちょっとしたボタンのかけ違い。ちょっとした間違いの繰り返し
そもそもが勝てないならドンパチをふっかける相手じゃなかった。
結果、その代償は命で贖うしか許されなかったワケです。

秋になると唱歌が弾きたくなります。
ちなみに、「里の秋」は現在大半のガッコでは教わりません。
1社だけ、小学校4年生用の教科書に掲載しているものがありますが、
それも残念ながら3番の歌詞は削除されています。
囲炉裏も無いですし、栗の実なんて炒ったものだし、
ましてや南方からの引き揚げというのを説明するのが大変とかって
事だそうですが、
どんなに大変であっても説明が必要なものと言うのも
あるんじゃないのかなぁと思うんですけどね。

[No.272]含羞 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/10/01(Wed)-21:44
Shyness(&Decency)

雑文をしたためるだけではなく
拝見するのも好きなちすでして、
時間に余裕があると電脳界を回って勉強をさせていただいております。

そんな経験でいつも不思議に思うのは方々が雑文を書かれている体裁。
プロフィールからもその内容からも有識者であると確信できる方の
文になればなるほど、非常に丁寧な文体で正しい敬語を用われ、
逆にプロフィールを拝見する限りとても有識者とは考えられない方が、
そのプロフィールを決して裏切らない薄い内容の文の末端を
「○○である」とか「××にほかならない」などと、
読む相手に対し威圧的な言葉で綴ってあるのを目にすると、
内容と体裁については反比例の法則でもあるのだろうかと思うワケです。
この文章を飾る言葉の反比例
つねづね不思議に思っていたちすですが、
最近、とある有識者の書かれた中に答えにつながる文を見つけました。

その方は常々
「文は私なるものを他人様にお見せするものですから居ずまいを正すのは当然」
と表されていて、
その内容とともに、お言葉の使い方までも文字通り「もったいのうございます」
とお礼を述べたくなるようなものが多く、はるかにおよばないまでも
近づきたいものと日々望んでいるちすなんですが、
ちすとは違う観点ですが文章を飾る言葉の反比例について考察されていました。

 ある日、夜半に急な入用のモノがあり、
 終夜営業のコンビニエンスストアにでむかれた時の事。
 氏はいつものように部屋着を軽装着に着替え、
 鏡の前で軽く体裁を整えられて家を出られました。
 夜半といえ店内はそこそこのお客でにぎわっていたそうですが、
 目に付いたのがそのうちの幾人かのお客さまたちの様相。
 部屋着に上着を重ねただけのヒト。
 下着まがいの薄着の上、頭にはタオルを巻いたままのヒト
 はてはジャージ地の運動着、
 それも決して運動をなさるために着用しているとは思えないヒト。
 近隣のお店とは言え、他人様の前に姿をあらわすのに、部屋着や下着まがい、
 はてはジャージにサンダル姿。
 そのようなヒト達をみていて氏は気がつかれたんだそうです。
 「常々電脳界における人也と文也の不均衡を不思議に思い、
  礼を失した文を公開されている人というのは
  他人様に恥ずかしい姿をさらしているというのを知らないのであるからだと
  理解して考えておりましたが、
  今、この店舗をこのような格好で歩かれている方に恥ずかしいという
  感情はないであろう現実を考えると。
  礼を失した文を公開されている人というのは、この方々と同様に
  他人様に恥ずかしい姿をさらしているというのだという事実を知らないのではなく、
  礼を失した文を公にさらす事が恥ずかしい行為であると考えていないのではないか」
と・・・

明日が今日の継続であることと同じように、
日常というものはかならずどこかに表れるのものです。
礼を失したむき出しの文を他人に見せることを恥ずかしいと思わないヒト。
それは文とおなじように
むき出しの姿を他人様に見られることを恥ずかしいと感じないような
日常生活を送っているヒト達なのかもしれません。
ちすの信条「失礼は諭せるが無礼は斬るしかない」
礼を失しているのではなく、礼そのものをお持ちで無い方々。
こういう方々には是非、ディスプレイの横に鏡を置いてご自分を見ながら文書を綴って
いただきたいと思うのですが、
パソコンしつらえる余裕はあっても鏡を用意する余裕は無いようです。

と、言うことで
ちすのような中身に味のない雑文をしたためる手合いは
せめて慇懃で含羞の徒でありたいと望む次第です。

[No.271]マラソン記念日 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/09/16(Tue)-22:12
Legend of Pheidippides

紀元前450年9月12日
アテネ対ペルシャの戦いにおいて、マラトンに上陸したペルシャの大軍を、
アテネの名将ミルティアデスはみごと撃退。この勝利を伝えるため
若き兵士フェイディピデス君が伝令となり、戦場のマラトンからアテネまでの
道をひた走りに走り続けました。
やがて、アテネの城門に到着したフェイディピデス君。
待ちかまえていた大勢の市民に「喜べ、我軍勝てり」と戦勝を告げて、
そのまま卒倒して絶命したという。有名なエピソードの日だそうです。
もちろんウソです(笑)
そもそもがこれにちなんで始められたというマラソン競技。
走るたびに死ぬようなモノだったらオリンピックでは
屍の山になっちゃいます(笑)
ちすなら死ぬ前に走るのなんてやめます(爆)

さてさて、それじゃこういう史実が全然なかったかってーとそうでもなく、
フェイディピデス君は実在したようです。
ただしフェイディピデス君は若き兵士ではなく、プロのメッセンジャー。
通信技術のなかった当時。人々はこういうメッセンジャーを職業とする
人達に伝令を依頼していました。
んでもってフェイディピデス君。個人ではありません。
フェイディピデス君と言うのは今風にいいます「クロネコのヤマト君」とか
「飛脚の佐川君」とかってやつでして、
プロのメッセンジャー集団のお名前。
「伝令のフェイディピデス一家」って感じです。

では、史実に基づいたマラソン記念日はどうだったかといいますと、
紀元前450年夏
アテネ対ペルシャの戦いはにらみ合いの膠着状態。
ところが大変。9月に入って風向きが変わるのを待って、
ペルシャの大軍が海を渡って攻め寄せてきました。
驚いちゃったのはアテネの将軍ミルティアデス。
あわてて伝令のフェイディピデス一家に
250km離れた同盟国スパルタに、援軍を求める為の伝令を頼みます。
依頼を受けたフェイディピデス一家は野を越え、山を越え、
昼夜を問わず走り続け・・・なーんて事はなくって(笑)
もともとが都市間の伝令屋サンは中継基地を設置し、
地元の山岳族の方々も雇用して効率よくやっていましたので、
安全な日中にのろしや伝書鳩を併用しながら
スパルタまで250kmの距離を44時間で援軍依頼を届けました。
これを受けたスパルタ軍。
「ををっ、アテネ軍の一大事。助太刀するのはこの時ぞっ!!」と、
 ♪稽古襦袢に身を固め 段小倉の袴股立ち高く取り上げし
  白綾たたんで 後ろ鉢巻眼のつる如く♪
なーんて事はなくって、
「援軍。わかりましたぁ。そしたら次の満月の日まで待っててねーっ!」と。
スパルタの風習では軍事行動は満月の日に行う事になっていたのです(笑)
次の満月の日。武装した二千のスパルタ軍は駆け足でアテネを目指し、
伝令から13日後にアテネに到着しますが、その頃季節はずれの大波食らって
ペルシャ軍は撤退していた後・・・ちすが大好きな逸話です。

ヒトは長距離を走るような過酷な運動をいたしますと、
脳内麻薬の分泌と過炭酸瓦斯症状により非常な高揚感が得られるそうです。
それがマラソン依存症と呼ばれる疾患まで引き起こしています。
スポーツ全般に言えることですが、運動は過度を過ぎると全て依存症を引き起こします。
そしてスポーツを健全で害のないものと盲信する周囲の声援により
それはどんどんと悪化し、ついには生物が本来持っている警告信号すら
無視して肉体を酷使し、破滅につながっていきます。

「もぅ、ここいらでやめておきな」
百万の「ガンバレ」よりも優しい一言をかけてあげることができるヒトが
スポーツ信者の中に出て欲しいと思うちすです。

[No.270]被害者帝国主義 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/08/26(Tue)-20:25
「被害者帝国主義」

Victim imperialism

夏になる前に発刊された「『心の傷』は言ったもん勝ち」(新潮新書)
という本があります。
中嶋聡サンって精神科医の書かれた生の臨床所見です。
もしも、
この表題を目にしただけで構える方がいたとしたら、
中嶋センセの言う「被害者帝国主義者」の方でしょうね。
臨床所見といってもこの本では臨床医の視点で専門用語をできるだけ抑えられた
明快な切り口でこの「言ったもん勝ち」の手合いを斬られています。

さて、買ってからしっかりと読みふける時間がなかったのですが、
やっとじっくりと読むことができました。
読後、ふと思い出したのが、
子供の頃読んだ「わんぱくニコラ」(Le petit Nicolas)という児童小説です。
作者はRene-Goscinnyサン。
確か「プチ・ニコラ」って名前で現在も発刊されています。
お話の舞台は1950年代のパリ。
主人公のニコラは小学生で、
同級生達といろんないたずらをしでかすというお話なんですが、
この同級生の1人に「ガリ勉アニャン」というキャラがいます。
彼がガキ大将に一発食らわされそうになるたびにわめくのが、
「やめてくれよぉ、ボクはメガネをかけているんだぞぉ」というセリフ。
当時のメガネレンズはガラス製。もちろん強化処理もしていなかったので、
ちょっとした衝撃で割れ、割れた破片ですぐ怪我をしていました。
そこでメガネをかけた者とドンパチする際はメガネを外すのが
常識だったんですね。
これをガリ勉アニャンは逆手にとって、メガネを外さないことで
一発食らうのを避ける手段としているわけです。

ガリ勉アニャンと「言ったもん勝ち」の手合い。
ちすの中でオーバーラップして、
「やめてくれよぉ、ボクは心に傷があるんだぞぉ」
というセリフが聞こえてきました。
ただ、その「心の傷」とやらを外して一発食らわすことができないという事では、
メガネよりも始末が悪い相手ですが(笑)

中嶋センセは「言ったもん勝ち」の手合いを「被害者帝国主義」と
斬られていますが、ちすに言わせるとこういう手合いの周辺にとっては
帝国主義どころか「患者独裁主義」なのではないかと思います。

「『心の傷』は言ったもん勝ち」の帯には「のさばるエセ『被害者』に気をつけろ!」
との副題が記されています。
エセ患者がエセ被害者となってエセ相談者と屈託してのさばる世の中です。
エセが集まってサル山のエテ公ならぬエセ公になってキィキィわめいているのが
「人権保護」とかってヤツなんでしょう。

最近目に付く「心の病」「迷惑行為騒ぎ」
この中に本当に医師が認めた「病のヒト」は
この中に本当に迷惑行為を行った「罪のヒト」は
何割ぐらいいるのだろうかと、考え込んでしまうちすでした。

[No.269]友達100人出来たなら 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/08/13(Wed)-21:14
友達100人出来たなら

If you have a freind of 100people

「友達100人出来るかな」
子供の頃、唄った歌が、電脳世界の展開とともに現実となろうとしてます。
逢ったこともない方と電脳界でつながり、それを友と称する。
つながりの数を増やすことで、自分自身が社会において求められているように思える快感。
そして、もっとも有益なのはそのお友達の個人情報・・・

では、我が国の中高年世代の現状において、
「統計的なお友達100人の情況」とはどのようなものでしょう。

 ・お友達のうち4人は博士号を所持しています。
 ・お友達のうち5人は日本国籍の所有が疑われます。
 ・お友達のうち18人は3親等以内に犯罪者がいます。
 ・お友達のうち2人は本人に被起訴歴があります。
 ・お友達のうち15人は精神疾患で通院しています。
 ・お友達のうち5人は精神疾患による行政の補助を受けています。
 ・お友達のうち9人は行政による生活の保護を受けています
 ・お友達のうち3人は実在しません。
 ・お友達のうち6人は悪性腫瘍を発症しています。
 ・お友達のうち23人は三大成人病の治療を受けています。
 ・お友達のうち30人は未成年の間に親が死亡しています。
 ・お友達のうち8人は家族に2級以上の障害者がいます。
 ・お友達のうち2人は本人が2級以上の障害者です。
 ・お友達のうち15人は職を失ったことがあり、4人は今も職がありません。
 ・お友達のうち43人は常用している薬剤があります。
 ・お友達のうち13人は標準体重を上回っています。
 ・お友達のうち29人は自殺を図ったことがあり、9人は救急車に乗りました。
 ・お友達のうち8人はカルト宗教の信者です。
 ・お友達のうち6人は日本が戦争していたことを理解しています。
 ・お友達のうち13人は日本が戦争していたことを否定しています。
 ・お友達のうち20人は標準血圧を上回っています。
 ・お友達のうち88人はなんらかの解決を迫られている有害事象に悩んでいます。

もし、アナタが今まで人生の恐怖や苦悩、悲痛や恥辱を一度も経験したことがないのなら
アナタは76人のお友達より恵まれています。
もし、アナタの御両親がどちらも健在で、アナタが御両親と離れた地で
介護の心配もなく平和に生活されているとしたら、
アナタは9人のお友達のと同じくらい幸せです。

アナタが今の環境や生活に悩まれておられましたら。
ぜひ沢山の「お友達」を作って下さい。
そして、親身になってお友達の辛い話しに耳を傾け、積極的にアドバイスをしましょう。
おせっかいと言われても他人様の生活に踏み込むことです。
アナタはお友達の不孝の情報を把握することで、
「あー、よかった!ワタシはまだましだ」という幸せが生まれてきます。

そしてもし、アナタに自分自身について立ち止まって考える余裕があったら、
お友達についてもう一度考えてみて下さい。
アナタの存在がお友達の数少ない幸福をかき集めているという事実を知る為に。

[No.268]夏バテ 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/08/11(Mon)-23:01
Summer heat

今年の夏はテレビジョンが視れたものではないなぁと
ある程度は覚悟しておりましたが、
もはやニュース番組すらつぶしてしまう支那五輪のネタに
完全にブチ切れて待機電源すら落としてしまったちすです。
普段より夏は曲馬団の猛獣使いよりも残酷な高等学校野球の話題が可哀相で
視ていられないちすですが、
これで今年の夏は完全にテレビジョンと縁が切れました(笑)
「嫌スポーツ権」を掲げた政治屋がでたら絶対に応援したい今日この頃。

さて、夏といえばなにかと話題になる夏バテ対応
なんとかしようと手を変え品を替え、
怪しげな健康飲料をいただいたり、美味しくもない食品を常食したり、
体操したり踊ったり、祈ったりツボを抱いてみたり・・・
と、色々対策をなさっておられます。
で、なまじっか、効果があったような気がするものがあると、
「これこそが一番の対処法」とかって、
謝礼でもいただいているのかって疑うぐらいのおせっかい勧誘。
これもテレビジョンの高等学校野球と同じくらいに
歴史ある夏の風物詩ですね。

夏バテ回復グッズ
生物学的に考えるとそんなものはありません。
生物は肉体の許容範囲を越えて活動すると疲労する。
それは係数によって示されるものであって、
マジナイや根性で変えることができるようにものではないのです。
生物は体調がいいときには何を飲もうが何を食おうが調子は良く、
悪いときには何をしようが悪いワケでして、
毎年の温度・湿度等の環境をしっかりと把握し、それに対する
自分自身の年齢と健康状況から無茶は許されるが無理になる
ラインを割りだしてそれを越えないように心がければ、
マジナイに頼らなくっても夏バテはやり過ごす事ができます。

ただ、どうもそう言うことを理解できない因子が、
体調が悪いときにいろいろと取りすがっていた対策を試していたら
たまたま体調のよい年にあたったものが、
あたかも調子をよくしてくれたように感じたので
「ををっ!これが効くのねーっ!!」
などと錯覚してしまうワケです。
もっと困ったことはこういう因子が多数を占めているという現状。
生物は千種万別。体調もしかり。
自分の好物を他人様の口こじ開けて突っ込むようなシロウト治療は
それが効かなかったヒトをもっと絶望に追い込むだけの事です。

まぁ、それでも血液型なんちゃらと同じレベルで
話題のネタになっちゃうのが夏バテ対策。
ちなみに、ちすの考える一番確実な対処方法は、
「猛暑の時期は高原の別荘に避暑して、しがらみを避け音曲か読書でひと夏過ごす」
事だと思うんですけどネ。

[No.267]霊の方々 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/07/29(Tue)-22:16
霊の方々
Orgy of the Dead

かなり減ったとはいえ、やはりこの季節、「霊の方々」のお話というのは
ウケるようで、テレビジョン欄の深夜時間を見ていると
そのようなお題の番組がみられます。

この幽霊話というのは歴史的にさほど古いものではないようです。
怪異談の方は平安期にそれまでの伝承話や大陸から来た話が整理されて
殿上人に広がり始めたのが最初のようですが、
あくまでもメインは物の怪の類。
ヒト。それも死者が祟ると言うのはまだまだ珍しく、
庶民レベルにそういう話が広がったのは江戸期の中頃だそうです。
まぁ、平安期の庶民といいましたら、ちょいと町はずれに行けば
死体なんぞはシッポ達と同様にあちらこちらに転がっていて、
庶民は人魂が乱舞するような野外でごろ寝をされていたワケですから、
死人が怖いとかなんだとか言っていたら暮らせなかったでしょう。
これがさらに時代が下って動乱の時代ともなると、
延々殺されるか殺すかの日々。
家なに居る婦女子といえど男達があさってきた死者の持ち物で
生活していたワケですし、
時には切り落としてきた首を井戸で洗って差しだして
懸賞金いただいていたワケです。
で、そういうのが転がっている腐臭むんむんの中で暮らしていたワケですから、
幽霊は怖いぞーなんて言われてもねー。
ま、そもそも幽霊なんてのは、
相手の死に対して何らかの後ろめたさをかかえているから出て来られちゃうわけで、
死と言うのを季節の移り変わりのように自然の流れの1つとして
受け止めていた時代には幽霊なんてものは出なかったのでしょう。
ニャンコの幽霊と言うのはヒトしか見ないということですね(笑)
ま、ニャンコがいただいたネズミさんの幽霊に悩まされていたりしたら
これはこれで可愛かったりして(笑)

となると祟って怖いものと言いましたら霊の方よりも生霊の皆様です。
なんたって相手の祟り・・・生きてるって事は増幅するワケですよ。はい。

もちろん、このテのものは「自称被害者」に問題があるのですが、
なんかの拍子に「アイツは私を呪っているにちがいない」
などと考えて、あとは精神面のアリ地獄ってやつです。
 ・最近よくないことが起こる。
 ・体調が悪い。
 ・知り合いによくないことが次々起きる。
等々の、通常起こりうる可能性が充分にあることが
「呪いのせいに違いない」とかって状態に陥っちゃうんですよねー。
もうこうなると後はツボやマジナイに頼っちゃって、
よしんば切り抜けたとかって勘違いしちゃったら
「ワタシはこれで助かりました」のカルト勧誘。

呪いを断ち切るのはツボやマジナイなどではなく、知性です。
「現代社会の状況において何ヶ月間も平穏な状態の続く確立は非常に低い」
「自分の年齢を考慮すると体調が悪い日のほうが体調のいい日よりも多いはずだ」
「以前より交友関係が増えたのだから有害事象の起こる確率も高くなっている」
というような当たり前の事に気がつけばその段階で呪いは解消されます。
ま、問題はそういう事を考える事ができるオツムがあれば
最初から呪いなどと言う事を考えないかもしれませんけど(笑)

[No.266]日ノ本の消えた時 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/07/16(Wed)-23:01
NIPPON

1970年7月14日
世界に対するいろんな「日本」は消えて、
全ての呼称は「ニッポン(NIPPON)」となりました。

小学生の時、この「ニッポン」という言葉になんかヤな感じを
受けたものです。しかし、遠足や家族旅行で訪れた万国博覧会では
「NIPPON」の文字が飛び交っていました。
「日本国」をどのように呼ぼうとそれは個々の自由。
英国語しか解せない相手には「JAPAN」と発する事ができれば
それで充分だと思うちすですが、
なぜかこの国では「みんながどうするか」を方向づけないと
ヒトが動きません。
日本人は病的に孤独や淋しさに弱い民族です。
とにかくまわりと同じ行動をとらないと不安を感じる。
それって、日本人が農耕民族として村社会の文化の中で生きてきた結果なんだとか
言われていますが、同じ亜細亜の農耕民族と比較してもそれは特殊です。
日本人は一つの方向、一つの理念でまとまったときは強いものですが、
個々が自分の価値観で動くことは非常に弱い特異な種族です。

さて、そんな事を思いながら、ふと思い巡らせたのが
「またも負けたか八連隊。それでは勲章九連隊」という囃し言葉
ゴロのよさと「そうかもしれない」という風潮から生まれた
古い都市伝説ですが、これからの「NIPPON」国
この農耕民族の、誰かが方向付けてくれればなんでもオッケーの特質と、
上方に培われたおちゃらけ民族性の合体。
これこそが護ってくれるのです。
狩猟民族の一歩後ろを。かといって離れないようにくっついて歩き、
 「あらまぁ、金髪の色男サンっ!!ごきげんうるわしゅうっ!!
  はいはいっ、フジヤマとゲイシャのお国でございますよー。
  え?そんな、ぜんぜん儲かっておまへんがな。何をいうてますの。
  軍隊??そんなもん持つ金なんておまへんって。
  いけず言わんと助けて下さいなぁ。ウチら亜細亜のイロモノですから
  皆にいじめられてますねんて。
  かけひきなんておへんえー、アホですからなぁ。
  ほたらみなさん、これからもごひいきによろしゅうにーっ!」
ってやっときゃあ毛唐はいい気分でほっておいてくれるのです。

世界的な不景気。
供給量を管理出来ない石油ルートを独裁制覇にかこつけて強引に封鎖し、
気候変動まで商売にして、
一気に下落させた株を買い占めているベニスの商人に正攻法は通じません。
ここは、国をあげて「またも負けたか八連隊」を演じて
揉み手とおべんちゃらの平和な「NIPPON」国を作って欲しいなと願っているちすです。

[No.265]根性の季節 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/07/04(Fri)-20:28
根性の季節

Sacrifice ARMY

暑い季節になるとただでさえ見ないテレビジョンをますます遠ざける
放映がはじまります。
「全国高等学校野球選手権大会」
夏の甲子園。

最高気温が摂氏三十数度になろうかと言う青天井の下、スポーツを
するほうもするほうですが、これを応援するほうも完全にアドレナリン
過剰分泌状態。揃って熱中症を望んでいるとしか思えない行為です。
まぁ、彼らの世代と言うのは誰しもああいう意味のないことに没頭する
自分自身に陶酔したいものですからその気持ちは理解できます。
ジャンルは違いますがちすもそうでした。
では、何がちすを不愉快にさせるのかと言うと、
その高校野球に饗宴する若者達を心配もせず、
彼らの試合を放映するマスメディアや声援を送る大人たちの狂態に
問題があるのではないかということなのです。
「声援より行き過ぎをとめるべきなのではないか」と言いたいのです。

高校野球は部員が百名を越えるようなマンモス高校でもない限り。
どのチームでも部員数というのはせいぜい30名もいればいいほうでしょう。
すると試合に耐えうる技量の投手はせいぜい1人2人。
実際投手1人でトーナメントを昇ってくるチームも少なくありません。
そして、準々決勝、準決勝、決勝となると、
この技量のある投手が連投することとなります。
これが捕手ともなるとトーナメント全試合
1人の捕手が出ずっぱりというチームも多くあるでしょう。
このような過酷な運動が許されてもいいのでしょうか。
たまに試合が日程や天候の関係で1日の休養がとれる場合もありますが、
若いとは言え疲弊した肉体は1日程度の休養では回復しません。
そのうえ、高校野球を指導する側に立つ大人たちは彼らに
「気力」だとか「根性」だとかと更なる無理を強要する。

高校野球が教育の一環というのなら、
まだ10代の若者の肉体に
このような過酷な負担をかける教育になんの意味があるのでしょう。
同世代の若者達にこのような情景を見せる教育になんの意味があるのでしょう。
教育というなら気力や根性では肉体疲労は回復しないと教えるほうが
よっぽど生理学の教育になるのではないのでしょうか。

高校野球でベスト4に入るようなレベルの選手には、
卒業後にプロ野球や社会人野球の道に進むヒトがたくさんおられます。
つまり彼らの肉体は今後の彼らの人生を支えていく大切な商売道具なのです。
真夏の炎天下で連日試合を行い、ひと夏でダメにするわけにはいかないのです。
はっきりいって高校野球を応援する大人たちは
肉体が限界に達した若者達に「気力」だとか「根性」だとかと声援を送り、
若者達が限界を超えて目の前で崩れ落ちるさまを見たいのではないのでしょうか。
日本人が昔からもっている「滅びの美学」の鑑賞ために若者の肉体に
過酷な負荷を強いているのではないのでしょうか。
故郷の名誉を背負った若者がマウンドの上で精根尽き果てて斃れゆく、
よしんばそれにもかかわらずチームが勝利したりすれば、
そのドラマ性は素晴らしいものかもしれません。
しかしそれは芝居などではないのです。現実に若者が1人斃れているのです。
そのような大人の勝手で高校生達に「頑張れ」とか「気合だ」とかと声援する。
それはもはや無意図的ではありますが彼らに対する傷害行為にほかなりません。

スポーツと言うのは肉体の自己主張であり、自己犠牲ではありません。
実況アナウンサーが「エース○○すでに限界。でも○○頑張っています」
などと言うのを耳にするたびに、
「限界とわかっているなら即刻やめさせろ!とめないのは不作為的傷害行為だ!!」
と叫んでしまうちすでした。

[No.264]夏越の祓 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/07/01(Tue)-22:44
good health during the second half of year

ふと気がつくと夏越の祓も過ぎ、
今年も折り返してしまいました。
時間の経過感覚は年齢と反比例とよくいわれますが、
加齢とともに刺激を新鮮と感じる度合いが低くなるせいでしょうか。
で、ふと振り返って鬼遊笑覧の後日談。

 [No.206]「ハレの日」
下着を換える時期と上洛時期をあわせていると書きましたが、
本年度から愛用していた「寝台急行列車銀河号」が廃止となったために
上洛の機会を定期的にすることが難しくなり、
それ以外にも下着をおろすハメになっております。
で、それに代わってイベントの度におろす事になっているのが靴下。
これはここんところ気に入っている靴が原因でありまして、
サイズが24.5cmなんですよね。
で、ちすの足のサイズは24cm・・・
当然ですが目一杯ヒモを締めても足先が踊ります。
いきおい、靴下の親指付近に穴が空く・・・
あ、なにも好き好んで24.5cmの靴を購入したワケではなく、
当該靴の最小サイズが24.5cmだったのです。
と、言うことで部品が標準値から離れているとロクな目に
遭わないという、多数決(自称)民主主義に侵された祖国を
足元から知るちすでした。

 [No.201]「イースターエッグ」
鬼遊笑覧では「イースターエッグ」に挑戦しておるという事を
書かせていただいたのですが、
なんと全部のイースターエッグを制覇された方が出現されました。
もちろん出現と言うからにはカボチャ畑からアタマにタコ背負って・・・(笑)
例の「○○の人非人」とか「×××の無礼者」とか「△△の恥知らず」
とかってレベルじゃないものまで発掘されちゃって、驚いていると
最近はこういう暗号モノを解読するようなサイトがあるそうです。
うーみょ・・・呪詛だといっているのに・・・(笑)
と、言う事で今後鬼遊笑覧の表題にはenigmaを使って暗号化し、
ローター設定を投稿日から1週間だけ掲載することにしようかと
考えましたが、そもそもが呪詛などというものは受者に解読されなけりゃ
成立しますので気にしないでいることと・・・
 <(いや、そういう事はしないだろ)

 [No.226]& [No.259]
あれからいたるところで「残飯メシ」に遭遇するようになった帝都です。
そもそもが丼モノというのは1品のみが乗っていて由とするもので、
多数の食材が主食に乗っているというのは
1品では顧客を満足させる事が出来ない
シロモノが集合して糊口をしのいでいるようなモノなのです。
音曲で言うところのジョイントライブとかってやつですね
 <(言うかぁ・・・)
あ、そういえば、周辺でもジョイントが増えてきたなぁ・・・(笑)

 [No.256]「頑張りたい症候群」
やっと我が国でも疾患して認知されることになったそうですが、
問題はそのテの連中が医師の診断をウケるかどうか・・・
自身が「世のためヒトの為」なーんて妄想に侵されているワケですし。
「ヒトの為にアナタは殉死したまえ」なーんて言ったりしたら
 <(夜道で刺されるぞ(笑))

 [No.230]コロッケ+パン
なんと、諸物価値上げに伴う価格改定で問題解決がはかられました。

 「コロッケパン」:250円
 「コロッケ」:130円
 「パン」:120円

「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に深く横たわる10円の差。
これがなくなってしまったワケです。
とはいえ、店舗内の時間の流れを変える小さなブラックホールは健在で、
コロッケパンを買う為に半時近い瞑想の時が必要なのは変わりません。
当然、
「販売が簡易な「コロッケ+パン」を選択したら後ろに並ぶ顧客の
 待ち時間が減る・・・」という事実も健在で、
ますます「コロッケ+パン」を選択するヒトはみられなくなっています。

[No.263]月行船 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/05/21(Wed)-20:21
月行船

Das Narrenschiff

JAXAの「かぐや」姫
アポロ15号の着陸船のエンジンの噴射によって生じた噴射跡の撮影に成功したご模様です。
ついでにアポロ15号飛行士が撮影した写真と同じアングルからの風景も撮影して
当時の画像と同じ風景が撮れることを立証しました。
これで、アポロミッションでは最低1回は(笑)
ヒトが月に行った事が説明できるワケです。
とはいえ、トンデモ科学にオツムを侵された懐疑派の方々の反論が
派手に展開されるでしょうねー
「実は「かぐや」も月になど行っていなくって鳥取砂丘の地下に作られたスタジオに・・・」
とかとか(爆)
「月に行く船」が「阿呆船」を追い越せるのはいつになることでしょう。

アポロミッションから三十余年たって
現在の宇宙開拓状況のお粗末さに疑問を感じられる方もおられるでしょうが、
そもそもがアポロミッション自体が無茶と言うか運が良かっただけというシロモノですので、
宇宙に出るのはここまでかかってやっと安全性を高めることができたって感じです。
それこそ先の大戦中に命を張ればヒトが乗ることのできるジェット機は
あった訳でして、そいつが60年かかって現在の安全性にまで技術進歩
したと思うと現在の「やっと観光ロケット」って状態は理解できます。
ただ、月までとなるとあのサターンブースターを現在また作るってのは
無謀に近いのでなかなかに難しいでしょうけど。

月と言いましたらジョー・ハーネルさんの「Fly Me to the Moon(In Other Words)」
これ、全然売れなかったアレンジの違う元唄の
「In Other Words」が()付きで併記されることが多いと言う
京阪神急行電鉄宝塚本線の某有名駅のような曲です。
 <(スーパーローカル&ヤバネタ(笑))

 ♪Fly me to the moon
  And let me play among the stars
  Let me see what spring is like          
  On Jupiter and Mars
  (In other words) hold my hand         
  (In other words) darling kiss me♪

「つまりは私の手を握って欲しいって事、私にキスしてって事よ」

さて、この「In other words」
野外フェスで米国音楽を唄われている方には悩みのタネですね。
「唄込みで音楽だろうが!」と・・・(笑)
ちすも唄と言うのは言葉の音を含めてのモノだと思っていますから、
そもそもが邦文に意訳された米国音楽にカタカナで原題を冠するって
のからして変だなと考えています。

もちろん意訳された唄ってのは
とっつきやすくって耳心地いいものであるのは間違いありません。
上手な意訳ですともともとの原語を辞書片手で訳してその意を計るよりも
的確な表現を耳にできるかもしれません。
ただ、それは決して元の唄の「音」ではありませんよね。
元の唄の伴奏に別な音の言語が乗せられた別の音なんですよね。
従って別の表題が冠せられるべきで、違う唄であると表せられるべきなのですネ。

異国の文化に対して「何だろう?」と思いをよせる事。
唄われている言葉の意味を知って聞こえてくる音とともにそれを
自分の中で自分の言葉として理解すること。
これって大切な事だと思うんですよね。
それは唄だけではなく楽器の演奏にも言えていることで、
「こうやったらこんな音が出ます」
をいくら繰り返していても上達しないことはプレイヤーの方々はご存知です。
「何だろう?」を繰り返し、理論を納得して奏法を編み出してゆくこと、
それが大切な事です。

お子様の使っている教材の表紙に「何だろう?がお子様を育てます」
って書かれてありました。
これってお子様じゃなくっても当然の事で、
「何だろう?」がなくなったら本来ヒトは終焉じゃないのかなって思います。
ヒトは「何だろう?」を常に抱えているかどうかで違ってくるって事ですね。

(In other words)
世の中にはお気楽の為なら不当など厭わないなんて方々の乗った船が
たくさん就航しているって事です・・・(爆)

[No.262]非常持ち出し袋 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/05/16(Fri)-23:11
EMERGENCY PACK

世界各地で災害の話題が飛び交うと、
「我が家の防災」が話題になります。

こんなときちすがよく言うのが
「非常持ち出し袋は意味がないばかりか危険です」と言う言葉です。

災害時。
情報は混雑し、ヒトはパニック状態です。
いつくるかわからない救援に人々はただただ不安におびえ、
この状況がずっと続くかのような絶望感にかられています。
そんな中で夜目にも目立つ非常持ち出し袋を背負って歩いているというのは
「この中には防災グッズと金目のものが入っていますよー」と、
ネギが鴨肉付けて歩いているようなもの、
暴徒に襲われたがっているような行為なのです。

もちろん「腕に覚えアリだから大丈夫」というお方もおられるでしょう。
しかし、あなたの背中の非常持ち出し袋に誘われてくるのは暴徒だけではありません。
幼いお子様の手を引かれた母親。歩くのもやっとのご老人。
そういう方々のすがるような懇願を前にあなたはどうなさいますか?
背中の非常持ち出し袋でいったい何人の方をお救いすることができますでしょう。
災害時に目立つ非常持ち出し袋は危険と哀しみを生み出すだけのものなのです。

では災害時の非常持ち出し品はどのようなものがいいか?
今回は鬼遊笑覧流、実践型非常持ち出し袋のお話です。

まず、バックは背中に背負えるものと腰に付けることができるもの。
それとチョッキ型のような着衣型のものの三つに分割してご用意ください。
また、一つ一つのものの容量はできるだけ小さなものにしてください。
災害時の荒れた行程を歩く際、
普段からそのような訓練を受けていないヒトが持ち運べる重量はせいぜい5Kg程度です。
従いまして大きなカバンでは避難時に自滅してしまいます。
また、荷物を分割するのは、荷物を1つにしておきますと
暴徒に襲われて荷物を奪われた場合全てを失ってしまうことになるからです。

バック本体ですが、普段使われているような地味な色のものをご利用ください。
できましたらある程度使って色あせたものなんかのほうがよろしいでしょう。
「罹災してとりあえずのものだけを詰め込んで出てきました」風を装うためです。
もちろんですが避難の際の服装にもこの原則を忘れずに
避難グッズに身を固めたような奇抜な格好はせず、
周囲に溶け込むような工夫が必要です。

では、非常時に持ち出すものについて考えてみましょう。
まず衣類。下着や靴下は初期避難時に交換する場所を望むことはできません。
下着類は防寒もかねて避難時には二重に着用し、カバンには
重ね着するための上着やタオル類、帽子やマスク、軍手類を入れてください。
ティッシュ類や衛生用品は重量は軽いのですがかさばります。
これらのものは簡易真空パックに入れて圧縮しておきましょう。
情報を得るためのラジオや簡易照明は
あれば便利ですが、実際にはさほど役にはたちません。
ラジオから流れてくるのは被害の状況であり、
「どこにいけば何がある」などと言う情報は期待できないからです。
また、大型の懐中電灯の類は電源がなくなってしまうとかさばるだけの荷物です。
情報収集には携帯電話の復帰を待ち、
照明は小さな照明器具を複数用意して使い捨ててゆく方が賢明です。
あとは非常用口糧や給水袋などを準備しておきます。
よく非常持ち出し袋に入れられる飲料水ですが、
これは最低限の量にしてください。
目安としては1リットル程度のボトル1本だけです。
そもそもが非常時の飲料水ですが、世間一般で必要量とされている
1日あたり2リットルというのは、ごく普通の環境であまり動かない場合の数値てす。
罹災地から避難行動をする場合、夏の場合で1日に4〜6リットル、
他の季節で最低4リットルの量が必要です。水だけで数Kg。
実際にそれだけの量の飲料水を背負って避難することは困難といえましょう。
そこで生命維持に最低限の量の水以外は移動中に現地で調達する事になります。
都市部の罹災の場合、ろ過したり消毒したりすることで飲用に耐えうる
水を確保することは可能でしょう。
このために必要なのは給水袋と浄水のための用品です。
重たくてかさばる飲用水の代わりにこれらのものを入れておきます。
また、非常用の食料については不用と考えます。
なぜならば「お湯を入れれば簡単な」非常用食料のためのお湯の確保が
災害時には非常に困難であるからです。
我が国の場合
災害から救護体制が整うまで3日間あればなんとかなる状況が整備されていますので、
荷物としてかさばるだけの非常用食料などはカバンに入れず、飲料水と
携帯口糧のみで救護体制が整うのを待ったほうが賢明といえます。
また、これらの荷物をカバンから出し入れする際には周囲の目にふれないように行い、
特に飲料水や口糧の摂取は注意深く行ってください。
飢えた群衆の中においては同じように飢えている方が安全なのです。

医薬品の類は多くご用意ください。
救援は命に係る傷病者を優先しますし、店舗の復帰も食料品や衣類を
中心に行われるでしょうから、医薬品は持っているだけでも心強いものです。
また、周辺で発熱や軽い怪我人が出た時に対処することで、
その後の待遇面において優位な立場に立つことができます。
もちろん、限りある薬剤を効率良く使うために投与の第一選択は体重が軽く
素早い効果が期待できるお子様です。
つづいて御婦人、御老人。
ただし、無駄に薬剤を消費するデブは後回しにしましょう。

現金や通帳、身分証明書、健康保険証の類はバック類には入れず
衣服と一緒に身に着けるようにします。
通常でしたらウエストバック等のサブバックに収納するのですが、
そんなところに貴重品を集中させては簡単に強奪されてしまいます。
貴重品はできるだけ分散して身に着けて下さい。

前述のように
我が国の現状において災害時に救援なしになんとかしなくてはならない時間は
せいぜい3日間です。
キャンプ気分でかさばるものを持ち出して、災害より怖いヒトに襲われるより、
どうすれば無法な3日間を逃げおおせることができるかを考えることが
より正しい防災といえましょう。

え?!救援が遅れてそれでも足らなかった場合?
そんなときには隠し持った刃物を振りかざし、
非常持ち出し袋を背負っている人をですね・・・

[No.261]夜空の星に 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/04/13(Sun)-17:05
夜空の星に

Восток

4/12はヴォストークデー
47年前にユーリスモール・アレクセイビッチ・ガガーリン空軍少佐が
宇宙空間を始めて飛行して帰還しました。
帰還出来なかった宇宙飛行士はそれまでに3名ほど・・・<(笑えない)

ちなみに、ガガーリン空軍少佐が交信したとの有名な言葉「地球は青かった」
ありゃウソです(笑)
宇宙空間からの交信で彼が言ったのは、
「地球が見えます。本当に美しい眺めです」でした。
ストレートな感想ですね。
ではこの「地球は青かった」はどっから出てきた言葉かといいますと、
帰還後の記者会見の感想なのです。
ちなみに、
「地球は青かった、そして宇宙を見渡してみたのだがそこにも神はいなかった」
とかって言葉もありますが、こいつもうさんくさいんだそうです。
でも、「地球は青かった」などという言葉を知っているのは日本人ぐらいで、
欧米では後半の「宇宙を見渡してみたのだが、そこにも神はいなかった」
って方が有名です。
こいつは欧米諸国にとってはじつに意味のある言葉です。
「宇宙に出ても神には逢えない」
んでもって、この彼の感想ですが、これには「もちろん」台本がありました。
宗教を否定するソ連の体制の中で「宇宙には(どこにも)神はいない」
との発言はプロパガンダを進める上で非常に意味があるものだったのです。

宇宙からの交信といいますと、
ヴォストーク6号で宇宙を飛んだ最初の女性、
ワレンチナ・ウラジーミロブナ・テレシコワ空軍少尉
彼女が交信したという「私はカモメ」は流行語になりましたが、
いくら女性だからって命からがらの宇宙空間でそんな詩的なことは考えられません。
まして、彼女はオッカサン系の筋肉少女。
その上飛行スケジュールに影響があってはいけないとかって事で半年近くの間
生理を停止するためのホルモン投与を受けていたので、
精神的にはカリカリモードでしたので詩的な感傷なんてとんでもない。
んじゃぁなんでこんな言葉がでたのか。

「カモメ」というのはヴォストーク6号の無線コードネームです。
ちなみに、歴代ヴォストークのコードネームは、
 1号 ケードル  (杉)
 2号 オリョール (鷲)
 3号 ソーコ   (鷹)
 4号 ベルクート (鷲)
 5号 ヤーストレプ(鷹)
 6号 チャイカ  (鴎)
です。
そして交信内容のほうは
 「こちらドーン(管制センターのコードネーム)。応答せよ」
 「ヤー。チャイカ(こちらはカモメ)」
だったんです。

さて、「地球は青かった」・「私はカモメ」などという意訳を作り出し、
ソ連の宇宙飛行士がいかにも詩的であるかのような仕掛けをしたのは、
当時の新聞社支局におられたロシア語の担当者サンです。
以前ご本人にお逢いしたときに、
「なんたってソ連や北朝鮮を褒めちぎれば出世できた時代だったからね」
と理由をご説明されていました(爆)

と、言うことで星に願いを。
残念ながら宇宙に出た程度では天国はまだまだ遠いようです。
せめて想いだけでも届きますように。

[No.260]朝の雨 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/04/07(Mon)-22:34
朝の雨

Early mornning rain

花散らしの雨の帝都です。
雨が降るとついつい睡魔に襲われるちすですが。
 <(いつでも睡魔と友達のくせに)
雨の日は眠い。これは生き物の基本的な反応だそうです。
これは、
「どうせ外に出ても獲物は取れないんだから寝ておこう」と考える肉食獣と、
「こんなときには寝ておいて体力を温存しておこう」という草食獣の
利害関係が一致して、みんなとことん眠いワケです。
このような自然の反応に逆らって仕事などしようとするから
ヒトは嫌われるんですね(笑)
ちなみに、
「雨の日は安全」と言う事で雨の日の草食獣はスケベだそうです(笑)
ま、もともとスケベなウサギなどは一日中エッチしていますけど(爆)

雨だれの音を聞いていると眠くなる。
これは雨のせいだけではなく単調な音を聞いていると眠くなるって事が理由だそうで、
昔は雨だれの音を耳元で鳴らす「安眠器」なーんてものもあったそうです。
ただ、最近は密閉型マンションなどの普及で雨だれの音を知らないヒトも
多くおられるそうですのでこんな安眠器が残っていても売れないでしょう。

雨女・雨男などというものは確率論であってそんな能力のあるものは存在しない
ってーのは「鬼遊笑覧」の [No.58]「めざせ雨女!」
に書かせていただいた事がありますが、
この言い方は古いものらしく、わが国で「雨女」との記録のある古いものは、
鳥山石燕が描いた百鬼夜行妖怪の一つに見られます。
農業地域では「雨」というものはその地域の生命線のようなものですから、
雨を呼んでくれる妖怪などがうまれたのでしょう。

これが大陸ですとちょっと色っぽく「朝雲暮雨」などという故事があります。
武王の伝説で王が巫山の神女と契った際、神女が恋仲を山の神に知れないようにと、
「朝には雲を呼び、夕に雨を呼びますので、それに隠れて陽台の下で逢いましょう」
と言い残した故事から、男女の密やかな交情を「朝雲暮雨」と呼び。
神女は「雨女」であると解説しています。
こういう雨女は歓迎ですネ(笑)

昔、遊郭なんぞのあった頃は。雨が降ると帰りの客に傘を貸してくれたそうなんですが、
これが蛇の目の女傘。
こいつを昼の日中にさして市中を歩いていると、
「ををっお泊りかいっ!豪儀だねぇ」なーんてちゃちゃが入る。
これがまたよくって遠回りして家に帰るなんて話が黄表紙にありますが
男にとっちゃあいい時代。
また、借りた傘をいつまでもかかえておくわれにもいかないので、
祝儀のひとつも添えて返しにいき、またしっぽりとおこもりをしてしまう。
「♪雨雨降れ降れもっと降れ♪」の世界ですにゃ。

ここ十数年電車の忘れ物のトップはずっと雨の日のカサだそうです。
とくに昨今はカサの価格が下落していて、
100円ショップでもそこそこしっかりしたカサが手に入るようになった為、
電車に忘れても取りに来るヒトがいないものでたまる一方だそうです。
日本最大の忘れ物集積場の東京駅遺失物センターは
奥の方がかすんで見えないぐらいに忘れ物のカサが並べられ、
その中から自分のカサを探すのは至難の技。
センターのあちこちにはカサを探しているうちに道に迷い、力尽きた皆さんの
白骨死体がいたるところにみられると・・・ウソです(笑)

ちなみに、わが国におけるカサの忘れ物の第一号は京の知恩院の天井にあります。
かつては知恩院の天井にも電車が走っていたものと・・・ウソです(爆)

[No.259]ハルマゲ丼 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/04/06(Sun)-21:40
ハルマゲ丼

Leftover raid

鬼遊笑覧の[No.226] でネタにした「トルコライス」
呑みに行った酒場で関東圏への侵略を知りました。
それも「残飯メシ」の別名誇る大阪風。
 <(いや、誇ってはいないと思・・・いたいなぁ)
話のタネにと注文したらメニューの写真通り、
お皿にはオムライスと野菜とトンカツ。こいつに焼き肉とスパゲティまで盛り付け、
ソースまでどっちゃとがかかっているというシロモノでした。
[No.226] で「それなりに」と言ったちすですが、
酒の席でこいつを見たひにゃあ「ゴメンナサイ」でした。
やっぱこういうお食事は変ですよ。
ここまで来ると「お食餌」ってやつです。
「役に立たない人類猫科ですが豚ではございません」って気分。

こういういろいろ乗ったドンブリ物ってのは
そもそもが盛りきりメシに起源を発しますので、
イスや屋根のある店舗で供されるような物ではなかったのでしょうが
その生命力の強さはゴキブリのようなものですので、
とうとう箱根のお山をこえてしまったようです。

しかしこういうイロモノまでが帝都の食堂のメニューに並ぶとは、
いかに食というもののネタが尽きたかって事の証明になりますね。
そのうち雑誌に
「今、蜂の子から目が離せない」とか
「高カロリーでヘルシィな松毛虫料理」なーんてのが
掲載されたり・・・うげっ!

丼ものといいましたらちすが嫌いの筆頭にあげたい丼がビビンバです。
いや、味はいいんですよ。あの食べ方がヤなんですねー。
「ぐっちゃかと混ぜてから食え」ってーやつ。
混ぜて食べて欲しいなら最初から混ぜて出せって言いたいわけです。
でなきゃ上から順に食べたっていいじゃないかって思うンですね。
ま、ビビンバって料理のルーツを考えると
残飯メシでありますから食べ方は混ぜ繰り返して食べるのが正統なんでしょうが、
「じゃあなんで盛りつけて出すの?」とかって思っちゃうんです。
なんかヒトで言うと
「ホントは愚者なんですけど見てくれインテリゲンチャ取り繕ってますー」
なんて雰囲気がしちゃうんですねー。
と、言うことでちすはそういう輩については「ヒトビビンバ」と呼ぶことに
しております(爆)

[No.258]春眠 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/04/01(Tue)-22:21
春眠
count sheep

春眠暁を覚えずなどといい、
布団にくるまったらニャンコと化してしまう季節です。
ま、ちすの場合年中眠り猫モードですが(笑)
そんな睡眠グ倶楽部所属のちすでも、なんかのはずみで
深夜にふと目が覚めてそのまま目がさえて暗闇とにらめっこをする
ハメになることがあります。
先日の深夜もそのようなことがありました。
ふと目覚めて枕元で「ムーン」とかってうなっている時計
 <(最近の時計はコチコチとはいいません)
に目をやると丑三つ時。
これは逝かんと(笑)もういちど布団にもぐりこんで一瞬寝たような気がして
また目が覚め、時計をみると5分しか経っていない。
またまた布団にもぐりこんでまどろんで覚める。時計をみると5分・・・
こんなことを数回繰り返しているうちに疲れてしまったちすでした。
「うーみゅ、これも不眠の一種なんだろうか。しかしこんな状況で過ごしていると
 夜明けまでにはあまりに遠い」
という事で古式豊かに羊を数える事にしました。

そこそこの広場をイメージし、面妖な綿羊を集めたところで
電気杖と屠殺銃を用意して、気を失ったところをばひゅっと一撃。
「ばひゅっ!羊が一匹」「ばひゅっ!羊が二匹」と効率よく屠殺してゆき、
 <(しかし羊なのになんで「一頭じゃないんだろ」)
ジンギスカン焼肉100人分程度の羊を始末したところで、
始末した羊の置き場所が無くなったので中止。
羊の山に腰を下ろして「うーみゅ・・・やはり毛唐のまじないは効かん」
と古式ゆかしく護摩壇を用意し
「阿毘羅吽欠裟婆呵ーっ!阿耨多羅三藐三菩提ー!!」
などと唱えてみましたがいっこうに効果はなし。
とりあえず護摩は片付け、火の方はもったいないのでさっき屠った羊を吊るして
料理しながら次の対策を考える。

頭の中でグルグルと円をえがくというまじないがあったなぁ。
えっと、とりあえずこのあたりで・・・いかん線がつながらないぞ。
手抜きはダメか。
「おーい、そこの羊。ちょっとこのスタッフ持ってそこに立ってろ」
「ちょい右半戻しだ。前に出して・・・そうそう」
うっしゃ、これでばっちり円が描けたな・・・よしよし
っって満足している場合じゃない。よけいに寝れないじゃないか。
こらぁ羊っ!輪の中で宴会始めんじゃないの。

しかたなく妄想どもを片付けてまたまた暗闇と対峙。
そもそもが丑三つ時とかったって、なにも出なけりゃ
単にヒマな夜半にすぎないんですよね。
かといって胸の上に白髪ふりみだした老婆に正座されたりしたら
よけいに眠れないワケですし・・・

うーみゅ・・・やはり原点にもどって羊だな。
と、再度召集をかけると、先ほどまでいた面妖な綿羊のサフォーク達
ではなく今度はモコモコのメリノ達が集まってきて、
なんだこいつらと思っていると羊であたりが真っ白に・・・
あ・・・朝になってた。

[No.257]平均値 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/03/13(Thu)-23:06
平均値

mean-value

平均は結果の分散を均したもので集団の多数値とも中央値とも限らないことは
中学校の数学で習った事の筈ですが、ヒトはどうも平均値を標準的数値
のように思ってしまいます。
顕著な例が平均寿命というやつで、
世の中の方々は誰しもが平均寿命近くまでは生きていけるように
思われていますが、決してそのような事はありません。
極端にいいますと、100人の集団にたった一人1だけ1000歳の方がおられれば、
残り99名の方が10歳で亡くなられたとしても平均寿命は倍の20歳弱になってしまいます。

ま、そこまで極端じゃなくても
「平均値だから2人に1人は大丈夫」などということは決してありません。
乱暴に、ついでに端数も端折った計算をしますと、
2005年の我が国の平均寿命。男性78歳、女性85歳以上まで生き延びれる方は
同時期に生まれて来られた方の、男性で17%、女性で28%です。
「あたしゃそこまで長生きは望んでいない」と言う方もおられるでしょう。
このお言葉には「もうちょっと下だったら大丈夫じゃないのかな」
なーんてご期待があることと思います(笑)。
では、団塊の世代の方々が定年から数年の間人生をエンジョイされて
ぱっと逝かれるという事で70歳まで大丈夫な方・・男性で21%、女性で33%です。
つまり同世代のうち、男性では8割、女性で6割以上の方のお命を踏み台にしないと
あなたは70歳まで生きることはできません。
どーんと太く短く。定年過ぎたら5年でオサラバの65歳。
これでもなかなかに厳しく、男性で34%、女性で47%です。

ただし女性の場合は平均寿命が男性よりも長いだけではなく、
50歳までに死亡される方の比率が男性より大きいという特徴があります。
これは、薄命な方々が女性の平均寿命を下げているだけという事でして、
逆に50歳を過ぎることができた女性はなかなか死なないということが言えるワケです。
まさに「佳人薄命」(笑)
従いまして、
「私は自分では可愛いと思うのに誰も認めてくれない」とお嘆きの女性の方々は
50歳になる前に昇天されて「ほら、可愛いから早死にしたでしょ」
と満足な最期を遂げられることをおすすめいたします。
さて、
このようにアテにならない平均値。
にもかかわらずヒトはこの平均値が標準指針のように勘違いしているわけです。

「○○歳の平均体重は××キロ」と聞いて「あぁ、まだ平均ちょっとだワ」
などと安心していたら、中央値は遥か下方にあって、
一部の居直り肥満が平均値を上げているだけだったり、
「標準家庭の貯蓄額は○○円」と聞いて「我が家はまぁまぁ標準ネ」
とかと思っていると、この貯蓄額。動産貯蓄や運用貯蓄などという
お金持ちのお金は入っていないワケで、
標準家庭なんてのも農林水産業は入っていないし、世帯主2人以上が対象だし、
一部には完全無収入という方々もはいっていまして、
そういう方々が平均値を引き下げ、実際に標準といわれる住宅ローンお子様つき
給与所得者一名のご家庭の貯蓄額は平均値の倍近くあったりします。
一時期「40歳代主婦のへそくりは平均100万円」とかってのが話題になりましたが、
この調査58%の主婦が「へそくりなんて持っていない」と答えたそうです。
つまりゼロ円を58%含んでの平均100万円です。
実際にへそくりを持っている42%の主婦での平均値は240万円だったとの事です。
まぁ、逆に考えますと「主婦の過半数はへそくりゼロ円」って事になりますネ(笑)

平均値のウソがよく見られるのが期間限定の展示即売会の類です。
展示会に1000人のヒトが来られて、990人が何も買わずに帰り、
たまたま残り10人の裕福なヒトが500万円分の善意のお買い物を
してくれたといたします。
ところがこれを「1000人の入場者で平均1人5000円以上のお買い物」と表現すると
現実は99%がそっぽを向いて閑散として終わった展示即売会。
善意で品物を引き取ってくれた裕福な方が居ただけに過ぎないモノが、
いかにも大盛況という感じになります。

ウソはないが決して真実も無いと言うことです。

信じてはならない平均値・・・
その中でも一番アテにならないのは「平均的な一市民」の発言かもしれません。

[No.256]頑張りたい症候群 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/02/21(Thu)-16:46
頑張りたい症候群

Self-satisfaction syndrome

年度が終わる時期になると、通勤のルートのそここで
目一杯お疲れモードの方々をよく見かけます。
深夜の列車も、通常でしたら車内アルコール量は数パーセント
以上となっているところですが、
週末でも「お仕事してましたモード」の方でいっぱいで、
アルコール臭はありません。
あったとしてもそれは学業と言う名の執行猶予を終了し、
数十年の強制労働の令状を手にした卒業生諸氏ぐらいです。

「疲れているのに頑張らなきゃいけない」方々が
無理を続けられたあげく、
病に倒れて逝かれるという哀しい話題もよく耳にします。
さて、この頑張らなきゃの飛び交う中。
ちょっとお困りな頑張る方々も見受けられます。
それが、「頑張りたい症候群」といわれる集団です。

頑張りたい症候群は、
頑張る必要もないのに頑張る事を求めてしまうという病です。
頑張っても誰も喜ばない、
頑張らなくっても誰も困らない立場に居るにもかかわらず
自分は頑張らなくてはならないのだという衝動に振り回され、
ともすれば頑張ることで周囲に迷惑までかけてしまうという厄介な方々です。

頑張りたい症候群は成果についてはまったく評価しません。
それは頑張ることが目的になってしまっているからです。
何か目的があって行った行為は、その結果うまく行かなかった場合には、
反省と共に解決を図らなくてはなりません。
しかし、頑張りたい症候群の方々は失敗に対し、「頑張ったんだから」と
頑張ったことを免罪符としてます。
従ってそれがどのようなマイナスな結果となっていも
「頑張ったんだから仕方ない」で済ませてしまい、
逆に、どのようなプラスとなっても満足感はありません。
ただただ頑張り続けていることに自分の存在意義を確かめようとしています。

頑張りたい症候群の他の特徴としては
何か達成したい目標を定めて頑張るのではなく、
頑張るという行為を継続する事を目標として設定しようとします。
「○○ができるまでは」とか「○○になるまでは」
この○○は自分が頑張っているという行為に対する
理由付けにすぎませんので、
とても到達できないものであったり、到達したとしてもそれを成果とせず
次を安易に設定できるようなものとなっています。
いちばん究極のものは「私が元気な間は・・・」という設定です。
これは一見、明確な目標のように感じられますが、
普通ヒトは元気であるから元気以外の為に頑張れるのであり、
元気でなくなったら元気の為に頑張らなくてはいけないのです。
このように、冷静に考えると当たり前の事を認識できず、
あたかも悲壮な目標のように設定してしまうのも
頑張りたい症候群の特徴のひとつです。

このような頑張りたい症候群の増殖は
本当に頑張らなくてはならない方々の成果を侵食し、
結果として頑張らなきゃいけない方々に対して必要以上の
労力を強いるという結果になります。

生命の進化は頑張ったものが生き残ったわけではなく、
可能性を求めてさまざまに分岐したうちで、
おかれた棲息環境に対して優位な機能に恵まれたものが生き残ったという
単なる分岐の確率によるものです。
生き残ったものが頑張ったワケでも優れていたワケでもありません。
従っていかに頑張っても棲息できない環境に居る限りは生き残りもありえないのです。
にもかかわらず、豚を飛ばしたり、鯨を走らせたりするようなことが
頑張ればできてしまうと信じているのが頑張りたい症候群です。

身の程に生きるということが
あたかも怠惰であるような事のように考えている頑張りたい症候群。
そんな頑張りたい症候群の「頑張ればどうにかなる」という暴走が
命を発生させた大きな環境までねじ曲げてしまったのでしょう。
どんなに頑張っても豚は飛べないし、鯨は走れません。
そして、豚が飛ぶことや鯨が走ることをこの星は望んでいるのでしょうか。

[No.255]猫の不幸 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/02/21(Thu)-20:56
猫の不幸

The Passion of The Cat

「辱知猫儀老境入衰弱の処 療養不相叶昨夜家族見守中
 細君の膝間にて逝去致候
 葬儀の儀は車を頼み箱詰にて西信院別院に運びて荼毘仕候 以上」

 ♪この下に稲妻起こる宵あらん♪

と、いう事でちす家の同居ニャンコ。昨日18年と2ヶ月の生涯を全うし、
遥か十萬億土の旅にでました。
叢レベルとはいえ動物学を学んだ身、死期は見えておりましたので
準備は整えてのお見送りでしたが、
無常の感が漂うのは否めませんですね。

命と言うのはすべて目的を果たして死を迎えます。
もともとは物質は命へと生まれることが目的でした。
そして次の目的はその命をつないでゆくこと。
最初は単純な分裂による命の連続が、誕生と死のリレーとなり、
そして生きる事に命のやり取りが発生しします。

生き残る目的。それは進化が示すように
求められる生であるかと言うことでしょう。
ヒトの場合なまじ芸ができますので、
本体ではなく芸を求められる場合がありますが、
シッポ達の多くは純粋にその個体を求められるかどうかです。

まぁ、求められているといっても「あったら便利」「居たら助かる」
と言われるような程度であるならば、
無くなったところでなんの支障のないものであり、
本当に求められているというのは「無いと困る」「居ないとできない」
と言われるものだけの特権なんですが、
これもヒトの場合は便利な程度の芸をもって生を求められているかのように
思っておられる方が多いため、
無いと困る命を追いやってまで狭い地表にあふれかえっているわけですね。

さて今回、求めていた命を見送る不幸を被ったちす家です。
我が家が不幸を請け負った事により、
幸福のエネルギー保存に従い
どこかに幸福が発生したということになります。
そして、
願わくばその幸福が巡り巡って帰ってきますようにとの願いを込め、
18年前と同じように「猫の不幸引き取ります」の看板を
懇意な動物病院に掲げに行ったちすでした。

[No.254]論告 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/02/15(Fri)-23:11
論告

Judgement

ある日就寝前に寝室を暖めておこうと暖房機を入力に行ったら
同行のニャンコが部屋の1点を凝視して動きません。
その視線をおいかけると、はい・・おられました。
昆虫綱・網翅目・御器囓亜目の生命体。通称「ゴキブリ」様
それもえらく栄養状態のよさそうなデブデブとした黒光りもの。

さて、あなたはこのような場合どう対処されるでしょうか?
 1・断固として退去を要求し、受け入れられない場合は実力を行使する。
 2・存在を公表し、他人が処置するのを待つ。
 3・仁愛論に基づき同一空間を共有することを許可する。
 4.存在を確認したことを否定し、放置する。

ちすは1番を選択し、ゴキ様の存在による有害事象の対策として部屋に
備蓄している液化二酸化炭素ボンベのバルブから伸びるホースの先を
ゴキ様に向け対峙しました。

ただし、ここで明確にしなくてはならないのは
「なぜゴキ様がここで命を終焉しなくてはならないか」
についての論理的な理由を見い出さなくてはならないことです。
戦闘行為は交渉を経てそれが決裂した結果として行使されないと
単なる虐殺行為となってしまいます。
しかし、生命論理において唯一許可されている命を奪う理由の
「食餌の為」・・・これはちょっとちすにはできかねます。
そこで、今回予定されるゴキ様の殺戮については、
来るべき審判の際に有利に審議を展開するために、
論理的な理由を述べて同一空間からの退去を迫り、
拒否された場合にしかるのちに戦力を行使しなくてはなりません。

さて、件のゴキ様は我が身に課せられた事象を理解しているのか、
身じろぎもせずに遭遇点にて静置されています。
ゴキ様に対峙したちすは審判のための論告を開始しました。

まず、当該空間における先有権ですが、
これに関しましては及ぼす法が違うということで
行使する事はできません。これは両者同様と考えられます。
ただ、お互いにその容姿および行動が周囲に及ぼす不快感というものは
考慮すべきでしょう。
端的に言えばゴキ様は「見た目が醜悪である」と言うことです。
この空間においてちすが周辺に及ぼす不快感の可能性と
ゴキ様が周辺に及ぼす不快感の可能性を考えると、
第三者であるニャンコ様の反応を見るかぎりゴキ様の方が
有害であると主張することは論理的であると言えます。

続いて公衆衛生上の視点から主張いたしますと、
これは明らかにゴキ様の持つ常在菌はちすの持つ常在菌より
周囲を汚染する可能性は高いと言えるでしょう。
もちろんそれはゴキ様の仲間内にとっては汚染とは言えないので
相対的なものであることは否めません。ただし、汚染の被害となる
生命体の絶対数を考えると、ちすとニャンコと言うこの空間における
生命体の2/3が汚染される事を考えると、
ゴキ様の存在は有害であるといえます。

さて、倫理的な検証ではいかがでしょうか。
生命における正当な生き方とは
生きれるだけ生きることではなく、求められるだけ生きることです。
それは種の保存という進化の歴史においても明らかな事です。
この空間においてゴキ様が生きて行かれる事を求めている意識が
明確に見いだせない限り。正当な生き方を主張するということは
非常に難しいと思われます。

そして最後に
この空間における生命体の物理的な力量関係において、
どのような最終判断が必要かということになります。
ちすやニャンコにとってゴキ様は醜悪であります。
そして、このような論理を越えた感情的な判断が生ずることは
お互いに所詮一介の生命体に過ぎない者同士に会っては
致し方ないでしょう。
つまりちすやニャンコにとっては「ゴキ様のどこに有害事象があるか」
ではなく、
「ゴキ様には許されるところはない」という判断が決定しているのです。
つまり、何が問題点かではなくゴキ様の存在が問題であるいうことになります。

と、腹の中でひととおりの論告をかまし、
ゴキ様に窓枠のすき間から退散いただくことを期待したちすですが、
次の瞬間、あろうことかゴキ様は羽を開放するという、
宣戦布告をなさいました。

と、同時に間一髪。ちすの手もとのホースから
大量の液化二酸化炭素が放射され、瞬時にゴキ様を冷凍。
今回の事件は落着をみました。

全ての命が理解することは地上ではありえないようです。

[No.253]死亡確認 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/01/30(Wed)-21:23
死亡確認

Dead Parrot

この世は諸行無常。
生きとし過ぎるものがいつの日か必ず迎える「死」。
鬼遊笑覧。
今回は深く「死とはなにか」を考えてみます。

命がいつの頃から死というものを意識し始めたかは分かりませんが、
学説によりますと、現世人類出現前のネアンデルタール人類の頃には
葬儀の習慣があったと言われていますので、
古くから死を意識するという感覚はあったものと思われます。
もちろんその時代には「どうなってると死」などという知識はありません。
従いまして同属の死は身近にいるシッポたちと同様に考えるでしょう。

つまり、
死んだ命には「動かなくなる」という特徴がみられるということです。
これは一番自然な死亡確認法といえます。
実際、死んだヒトの約98.4%は動かなくなるとのことです。
ただし、「積極的に動かない」ということではありません。
従いまして、
「うちのオクサンはいつもコタツの中にころがってテレビを見ているだけで
 全然動かないのだが、とても死んでいるとは思えない」というアナタ。
願望はご理解いたしますが奥方は死んではおられません。
また、就寝中に霊のヒトに押さえつけられて動けなくなるという場合もありますが、
この場合死んでおられるのは霊のヒトの方です。

また、死んだヒトには、「心臓が止る」という特徴もみられます。
死んだヒトの約96.8%は心臓が止っているとのことです。
ただし、これはある程度の時間以上心臓が止まっていることが条件となります。
ちすはネットショッピングの請求書が届いたり、
深夜にトイレに行って出したてのニャンコのウンチを踏んづけたときなどに
心臓が止まりますが、短時間ですのでこのような場合は死んだとは言えません。

続いて、死んだヒトには、「息をしていない」という特徴がみられます。
死んだヒトの約98.26%は息をしていないとのことです。
では、息をしていないヒトはみんな死んでいるかといいますと、
必ずしもそうではありません。
エレベーターで、降りたヒトがオナラを残していった場合や、
満員電車でドア側のコーナーを確保したのはいいけれど、
たまたま後ろと隣がとんでもなく厚化粧のご婦人。そのうえ、ドアが閉まる寸前に
飛び込んできたのが香料添加120%のオバチャン。おまけにおデブ。
などという場合ですとたいていのヒトは息をするのをやめますが、
かといって死んでいるワケではありません。

臨床的データとしてはどうでしょうか。
所見として、死んだヒトには、「脳の機能が停止している」という特徴がみられます。
死んだヒトの約97.74%は脳の機能が停止しているとのことです。
では、脳の機能が停止しているヒトはみんな死んでいるかといいますと、
必ずしもそうではありません。
トンデモ症候群におかされていたり、血中プロシミンの量が分泌異常
となっている方の場合、
脳の機能はおろか その存在すら疑われるというのに、
精力的に活動されています。
もちろん思考をともなった発言はできませんが、
そのようなことは食ってしゃべるだけという生活にはまったく支障がないので
死んでるようには思われません。

死亡からある程度時間が経過しますと、
死んだヒトには、「冷たくなる」という特徴がみられます。
死んだヒトの約97.46%は冷たくなるとのことです。 
では、冷たいヒトはみんな死んでいるかといいますと、
必ずしもそうではありません。
実際、鬼遊笑覧を読まれている方がちすに注がれる視線は
バナナで釘を撃ち込まれるほどの冷たいものですが、
鬼遊笑覧が死んだ方を対象とした雑文というわけではありません。

死亡からもっと時間が経過しますと、
死んだヒトには、「腐敗する」という特徴がみられます。
死んだヒトの約99.89%は腐敗するとのことです。 
では、腐ったヒトはみんな死んでいるかといいますと、
必ずしもそうではありません。
間違いなくはらわたが腐っているであろうと推測される方が
平然と活動されている事は日常的に見られます。
また、こういう方の大半は脳の機能も停止していますので二重死。
本来でしたら生きているほうが不思議なぐらいなんですが、
元気に動き回っておられます。

このような死について物わかりの悪い方には、
「アンタはこの世を去ったの。コト切れてしまったの。
 息を引き取り、神の御許に逝った故人で死体。
 命尽きて、永遠の眠りについて、
 今頃はひな菊いっぱいのお墓の下でおねんねしてるはずで、
 その生涯に幕を閉じ、昇天なされたの。アンタは「元ヒト」なの!!」
ってぐらいに説得しないとなかなかに死んではいたただけません。

[No.252]街頭録音 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/01/23(Wed)-23:06
Street interview

新聞に敗戦直後のラジオ番組「街頭録音」の
専任インタビュアーとして活躍されたアナウンサーのヒトの
訃報が載っていました。
「街頭録音」
昭和21年5月6日の第1回のテーマは
「あなたはどうして食べていますか」だったそうです。
紹介文として、「初の視聴者参加番組として大衆の生の声を電波に乗せた」
とされています。

この「街頭録音」という文字を見ると
学生の頃読んだ太宰治サンの「家庭の幸福」という作品を思いだします。
初見の頃、「家庭の幸福は諸悪の元」という結びに
いまいち共感できなかったのですが、
なんだかんだと生き永らえた今、
「ヒトの幸福は不孝の元」と考えると納得できます。

幸福と言っても突き詰めましたら事象に呼応して得られるモノです。
と、言うことは幸福も1種の物質と考える事ができます。
物質であるのですから、それと同じだけの反物質が必要でして、
得られた幸福の量とつり合うだけの不孝がこの宇宙のどこかで
生じていると言うことですね。
単純に言えば「食えたら幸福。食われたら不孝」っていう生命の基本なのです。
「あなたはどうして食べていますか」と訊ねた初回の「街頭録音」。
時代背景を考えると「あなたはどうして幸福を得ていますか」って事ですね。

「自己の幸福を願う」と言うヒトは、
得られた幸福の数だけ不孝をまき散らしている事を自覚するべきであり、
「万人の幸福を願う」なんておっしゃるヒトは、
自己の幸福などは考えず、常に自己の七難八苦を求めるべきなのでしょう。

あ、もちろんちすは「食えたら幸福」です。

[No.251]温故知新 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/01/15(Tue)-22:44
For the good old days

成人の日が特定日から第2月曜に移行して8年。

本年も各地では盛大に成人の日のイベントがとりおこなわれ、
はしゃぎすぎた新成人を憂慮する記事が新聞をにぎわせています。
とはいえ、あの程度の事で憂慮するとは昨今の中高年も余裕が
ありませんね。

本年三回目の成人式となられる団塊の世代の方々の初回成人式の時などは、
佐世保でエンタープラィズ寄港阻止闘争などという
楽しいイベントが用意されていたので、
法政大学前で200人の学生が機動隊と衝突、
なんと、131人が凶器準備集合罪で逮捕され、
そのうちの60余名が新成人として拘置所でこの日を迎えられました。
おかげで、監視体制が厳しくなった成人式ですが、
そんな事に負けるような世代ではありません。
翌年の成人式では、
知の柱東京大学の安田講堂に全共闘の学生500名が篭城。
そのうち150余名のヒトが晴れ着ならぬヘルメットとゲバ棒の正装にて
晴れの新成人となられています。いやいや、さすが無敵の団塊世代。

また、それを余裕をもって見守っていていただけた戦前世代の方々も大きいですね。
まぁ、火炎放射器や焼夷弾に比べたら火炎瓶や投石などオモチャの
ようなものだったのでしょう。

ちなみに、新春に公表されたJR構内での暴力・迷惑行為の調査によりますと、
昨年1年間のJR東日本での駅員や乗務員への暴力行為の件数は272件。
そのうち警察沙汰になったのは133件です。
で、暴力行為の年代別内訳を見てみますと、
予想に反してといいますか予想通りといいますか、
キレやすいと言われている20代は全体の20%。年代別では最下位でした。
そして栄えある暴力行為のトップに輝いたのは50代の33%。そして60代の29%と合わせて
団塊世代の皆様、実に全体の6割以上を担っておられました。
最近の元気のない若者に比較して、さすが団塊の世代の方々は
通勤時にも体力に満ち溢れておられます。
これ、素手で通勤着だからいいようなものの、
黒地のヘルメットにタオルの覆面。手にはゲバ棒という
戦闘モードでこられましたらもはや若い世代は逃げるしかありません。

皆様、願わくば団塊の世代の方々が認知障害世代になられる前に
特効薬の開発が完了していることを望みましょう。
角材で張り飛ばされたり、火炎瓶放り込まれたりしたあげくに、
「心神喪失によりその罪を問わず」なんて事になりましたら泣くにも泣けませんです。

さてさて、そんな成人式の休日。
このような無礼なネタをとばしても「この若造が」とも叱られずに
ご一緒を許される団塊の方々と呑んでおりましたちすです。
幸せに興じることしばし、話はとんで音楽へと。
メンバーのおひとりが新宿地下道をリアルタイムで経験した方でしたので、
古のギルド社の名機を引っ張り出されて、チューニングを・・・
いや、先輩。なにも音叉を使われなくても・・・
え、チューナーはよく見えないからダメだって。
あの、目が加齢で悪くなられているということはですね、
耳も同じように鈍くなっているんですから、耳でチューニングというのは・・
なになに、こういうのは長年の経験であると・・
しかし、なんか少々音程が高いような・・
えっと、チューナーの表示文字を大きくしましたのでぜひこれを。
「そういうことが出来るならなんでしなかった」って。
いやあぁた、チューナーは使わないって・・・はいはい失礼しましたです。
これでチューニングはばっちりですね。
弾かれるほうはいいですが、聞くほうはまだ耳がまともですから
せめて音程ぐらいは・・・
え?なんですって、「このチューナー壊れている」って
「俺のやったチューニングと違う表示をするから直せ」って・・・
いや、それはあぁたのチューニングの方が・・・

先輩。ギターを抱えていただいているだけでいいんですって。
あなたの「今」にはあなたの今までが全部あるんですから。
準備なんかは任せていただいてどうか今の一曲を・・・

あ・・・寝ちゃってる。

[No.250]苦しい時には神頼み 投稿者:ちすもん 投稿日:2008/01/09(Wed)-20:29
Danger past, God forgotten

新年から受験シーズンとなると、各地の神社仏閣は大忙しです。
1年の収入の大半を担っている3カ月ですから、ここで根性いれないと
「神様、夏が越せません」てな事になっちゃいます(笑)

さて、「苦しい時の神頼み」
手元の辞書を見ると、
「普段神様を信じる心をもたない者が、困ったときだけ加護を請うこと」
と書かれています。

なんか、悪いことのように表現される「苦しい時の神頼み」ですが、
ちすは常々「本当に苦しい時には神頼みをしましょう」と言います。
辛いとき、苦しい時。ヒトってのはなにかにすがりたくなるものです。
知人に訴えるもいい、ペットに話しかけるもいい、ツボに顔突っ込んで
怒鳴ってもいい、
「私は苦しんでいるんです」とかって看板を出して、慰めていただくもいい。
それがどんなものであっても何かにすがることで心が平穏になるものです。
もちろんそのことが問題の解決にならない場合がほとんどでしょう。
そのことも充分承知でヒトは何かに心をゆだねます。
ただし、それはまだなんとか受け止めることができそうな苦しみの場合です。

辛さ・苦しさがどうにもならないほどのものであるとき。
それこそ苦しいとか辛いとかという事を口にすることもできない。
おかれている状況を考えることすら辛くて出来ないぐらいの時。
そんなときには決してヒトやモノに頼ってはなりません。
なぜならそんな状況の時、ヒトは冷静に判断する能力を失っているからです。
差し出されるものはなんにだってすがってしまう。
たとえそれが今の状況をもっと悪くするようなものであっても、
判断もできずにすがりついてしまいます。
ちょっと冷静に考える余裕があれば絶対に相手にしないようなものにも、
盲目的にすがりついてしまい、どうにもならない状態になってしまいます。

だから、苦しい時にこそ神頼みなのです。
ヒトやモノになど頼らず自分の内にある神と対峙して、
現状をしっかりと分析するのです。
そして、冷静な目で本当にすがるべきものを考えるのです。

「因果応報」という言葉があります。
これもどうも悪いことのたとえのようにつかわれていますが、
因果応報って漢字の意味、これは単に
「すべてのものごとには原因がある」というだけ事です。
苦しい時・辛いときにはこの因果応報を問いてみることです。
そして、ヒトの言葉を聞き、ヒトの態度を分析できるようになってから、
あなたにさし伸ばされた手をじっくりと見つめてみましょう。
きっとゆだねるべき手が何であるか判るはずです。
ヒトは神でも悪魔でもありません。
無から有を生み出すような力は持っていません。
あなたの助けとなりますというような事を言いながら、
その根拠や理由が説明できないのであれば、それはただのまやかしです。
そこに真実のあるものは明確な根拠を示すことができるものです。
いや、明確な根拠があるものだけが真実なのです。

本当に苦しい時にヒトやモノに頼ってはなりません。
一万年もの前から賢人がちゃんと教訓を残しているのに、
こんな間違いを繰り返していると、
今度は神すらも我々を見捨ててしまうかもしれません。

 ♪鼻から息の出入りするだけのヒトなどに頼ることは止めよ。
   このような者にも何の価値があろうか♪
                      イザヤ書第2章22節