Environmental pollution
環境汚染物質はさまざまなものが発見され、
その危険性が警告されている昨今ですが、
太平洋の彼方では新たに一酸化二水素(Dihydrogen Monoxide)
という汚染物質が発見された様子です。
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一酸化二水素は無色、無臭、無味の液体です。
それは毎年無数の人々を死に至らしめている恐ろしい物質です。
ほとんどの場合の死亡例は一酸化二水素を
肺に吸い込んだことによるものですが、
危険はそれだけではありません。
ヒトは一酸化二水素の固形物に長期間暴露されると
身体組織の激しい損傷を来たします。
また、生物が一酸化二水素を吸入すると
多量の発汗および多尿の兆候を示し、
臨床的には腹部膨満感、嘔気、嘔吐、
電解質の異常等が出現する可能性もあります。
一酸化二水素は酸性雨の主要成分でもあります。
もちろん流行の地球温暖化の原因となる「温室効果」にも
多分に関係しています。
加熱された一酸化二水素は重度の熱傷の原因ともなり、
地表の侵蝕の原因でもあります。
一酸化二水素は数多くの金属を腐食させ、
それにより機械類の電気系統の異常や機能低下をきたしています。
また、最近の発表によりますと、
切除された悪性腫瘍の組織には必ず一酸化二水素が含まれている事が判明し、
その因果関係が研究されています。
一酸化二水素の汚染は生態系にも深く及んでいます。
多量の一酸化二水素が地球上の河川、湖沼、貯水池で発見されており、
その汚染は全地球的に広がっているのです。
驚くべきことに、南極の氷の中にも一酸化二水素の存在が発見されました。
また、毎年各地において増殖した一酸化二水素により、
都市や家屋の破壊による被害がもたらされています。
このような危険な物質であるにも関わらず、
一酸化二水素は溶解や冷却の目的で企業に利用されて、
原子力施設や合成樹脂の製造、消火剤、動物実験に使われています。
農薬散布にも使われており、
それによる農作物への汚染は洗浄後もずっと残っています。
心身への悪影響が危惧されているジャンクフードにも
一酸化二水素が大量に含まれていることが確認されました。
製造工場においては使用済みの一酸化二水素を
大量に河川や海洋に投棄しており、
それは現在一切の規制をうけておりません。
一酸化二水素が自然生物へ及ぼす影響は限りないとおもわれますが、
我々は今のところ何も出来ないでいます。
各国の政府は一酸化二水素の製造、使用に関する規制を
経済的理由から拒んでいます。
軍では一酸化二水素に関する研究を巨額の費用を投じて実施していますが、
その目的は軍事行動時に一酸化二水素を効果的に利用するためです。
現在、多くの軍事施設には、地下に近代的な施設が造られ、
後の使用に備えて大量の一酸化二水素が備蓄されています。
地球を愛するみなさん。今こそ一酸化二水素汚染の恐怖を認識して、
未来のために使用規制を訴えましょう
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恐ろしいですね一酸化二水素汚染
ちなみに、化学式では「H2O」と書きます。
しかしみなさん。恐怖の地球汚染物質は一酸化二水素汚染だけではありません。
そう、「炭素酸化物(carbon dioxide)の恐怖」です
この物質はもともと金星にあった有機ガスの1種だそうですが、
なんと、
ヒトを含めた生物のほとんどが
この炭素酸化物を気中に排出しているという恐ろしい事実が判明いたしました。
みなさん。美しい地球の未来を守るために、まずあなたにできることを。
そう、「吸った息は決して吐かない!!」
を実践いたしましょう!!!
飛ぶ教室
Das fliegende Klassenzimmer
クリスマスを迎える週末です。
クリスマス。もちろん中心となられるのは基督者のヒトですが、
現在の状況を考えると
「奉仕の日」とかってすれば信仰宗派にかかわらず、
みんなが楽しめるのになぁって思います。
さて、クリスマスを迎えるにあたり、
お子様がゲームソフトと本を所望されました。
ゲームソフトはお子様の為に御所望のものを。
本はちすの自己満足のために(笑)2冊を選ばせていただきました。
(Das fliegende Klassenzimmer)「飛ぶ教室」と
「エーミールと探偵たち」(Emil und die Detektive)
40年前。ちすがお子様の年齢だったとき、
クリスマスにちす父がプレゼントして下さった本も同じ2冊でした。
そして、75年前、ちす父が同じ世代だったとき。ちす祖父がクリスマスに
ちす父にプレゼントされた本も「少年探偵エミール」(Emil und die Detektive)
と「Das fliegende Klassenzimmer」
残念ながら「飛ぶ教室」は邦訳されておらず、
独語の教科書としてもらったとの事。
ちす家3世代に渡って受け継がれた来た名著。
次の世代にはもう無くなっているでしょうが、
「飛ぶ教室」
お子様に差し上げる前にひととおり読みふけり、
新たな感動にひたったちすでした。
「賢さのともなわない勇気は不法です。
勇気をともなわないかしこさは、くだらないものです!」
阿呆が吼えて、賢者が慎む今の風潮を考えると、
すべてのヒトに目を通してもらいたいお話です。
ちすが大好きな部分は主人公のマルティン・ターラーが
クリスマス休暇に帰郷するための旅費を
舎監のJohann Bokh-正義先生-がプレゼントするところです。
お礼の言葉を口にするマルティン・ターラーに対して、
「クリスマスの贈り物に貸し借りはない。返そうなどとは思っちゃいけない」
って応えるところ。
贈り物に対してあるべきものは感謝なんですよね。
貸し借りを物で測っちゃいけない。
ましてや返したら終わりなんてものじゃない。
奉仕は忘れるべき貸しで、感謝は忘れてはならない借りなのです。
作者のエーリヒ・ケストナーさんを真似て、
Faber castell社の緑の鉛筆で贈り物に添えるカードをしたためながら、
そんな意味でプレゼントというものを考えていたちすです。
通勤風景
Commuter
本日は年末の風物詩、「痛勤列車へアターック!!」という方がおられた為に
出社に通常の倍近い時間がかかりました。
最寄り駅に停まったままの列車の中、立っていても仕方ないので、
普段より持ち歩いている軽量の折畳みイスをカバンから取りだし、
風の当たらないドア側に座り、ヘッドフォンプレーヤーでオートハープの名演を聴きつつ
運行再開を待っていたのですが、こういうときのヒトの反応ってのは
見ていて飽きないものですねー。
まず、イスに座っている方々は半分くらいは寝不足をおぎなっておられます。
残り半分の方は、音楽を聴かれていたり、事故の実況を電脳空間に
配信されていたり、ちすのようにヒトを観察されていたり・・・
で、面白いのは立っておられる方々ですね。
最初のうちは平然としておられますが、
10分を過ぎた頃から疲れと不安から苛立たれてきます。
そしてまず、その苛立ちの対象は目の前の座っている方々。
「同じ金払ってるのにワシはなんで立ってにゃならん」
とかってジト目光線を飛ばしておられます。
読まれている新聞のページを変えられる際に、
わざと目の前に座っている方のお顔に当たるようにしてみたり、
少しずつ足を広げて座っているかたの専有エリアを侵略したり・・・。
しかし、座っている方も自分の地位というのは充分に把握しておられますので、
下手に紛争となる事を避けようとして、
「気がついていない」モードで対応されようとしておられます。
とはいえ、基本的に御自分が優位な地位にあることは間違いのない事なので、
避けていると言うより視線の中に優越光線を交えながら、
「こういう階級の者は捨て置いておこう」というのが適切なのかもしれません。
さてさて、そこまで低レベルな闘争はとてもできないというお立ちの方の中には、
意味もなく体制変えたり、つり革にぶらさがったりと、類人猿に帰化される方もいます。
これは同じ境遇に置かれている「立たれている階級」に迷惑をかけるという、
下手すれば「対イス族闘争派」の方々より困る手合いなんですが、
サルというのは目を合わすと襲ってくる習性がありますので、
周囲の皆様は我慢しておられます。
ここで、ただでさえたまっているストレスが増幅されるワケでして。
このストレスが駅員の方への回し蹴りやアッパーカットをかます際の
エネルギー源となってゆきます。
繰り返される車内放送に対して悪態をつかれる方もいます。
車内にスピーカーは配置されていますが、マイクは無いので、
返事をしても仕方がないと思うのですが、
「いいかげんにしろよまったくぅ!」などとおっしゃっておられます。
飛び込みを食らった列車に「いいかげんにしろ」と言うのは、
現場処理を適当に終わらせて、血痕なんぞはフロントガラスに着いたままでいいから
駅に向かえと言うことなんでしょうか。
うーみゅ・・・ちすはそういう列車に入線して欲しくはないですね(笑)。
お友達同士で「死ぬのは勝手だけどさー、飛び込みは迷惑だから・・・」
なんて会話をされている方がおられました。
自殺なんていう不孝をなさる輩にそういう感覚を期待するのは無理なことです。
有害事情は全て周囲のせいだと思っているような手合いなんです。
飛び込みがとっても迷惑になることは充分承知の上で
「ここで最後のひと迷惑」なんてお考の上なんでしょう。
なーんて愉しく観察をしていたら、ふと周りに感じるジト目光線・・・
「こいつ、なんで用意周到に折畳みのイスなんて持っているんだ
まさか飛び込みのあることを知っていたんじゃないだろうな・・・」
いや、ちすはなんでも持ち歩く習性でして、
そんな、予知なんてできるワケありませんです。
いやホント、たまたまでして、
え?「妙に嬉しそうだった」って・・・それは単に性格の問題・・・あわわ
いや、だから・・・
はやく電車を動かして下さいーっ!!!
奉仕
Gift
年末になると「助け合い」の旗印が寒風にひるがえります。
聖夜を、そして新しい年を迎えるにあたり「助け合いましょう」の言葉が飛び交う季節。
ちすは「奉仕は喜んで行いますが助け合いはまっぴらです」と応えます。
「助け合い」
この言葉に「次にこちらが困った時には助け返してもらうことへの期待」
が見えて、ヤな気分になるのはちすだけでしょうか。
助け合いという精神にはGive&Takeというものが見え隠れしていませんか。
ちすは助ける優しさとは常に「奉仕」だと思うのですね。
奉仕は一方通行のものです。自分自身が納得して行うものであって、
それは無償の提供です。見返りは奉仕を行ったときにいただいています。
では「贈答」・・・
いえ、奉仕は決して「贈答」と比べてはならない言葉だと思います。
なぜなら贈答には「贈」に対して「答」があるからです。
モチロンの事ですが、
ちすが始終奉仕に努めているかというとそのような事は決してありません。
それどころか奉仕と決めた以外の行動は「贈答」。Give&Takeです。
だもんで奉仕の場合には相手の方に感謝をしていただかないように
それが奉仕であること。ちすの自己満足の為のものであることを宣言しています。
助け合いに限らず、でっかい村社会の我が国では、「きっかけ」がないと
ヒトは何もしません。
そしてそのきっかけの最たるもの。それは「お隣さん」です。
「お隣さんがやらないから、うちもやらなくてもいいんではないか」
「お隣さんがやっているから、うちもやらくてはまずいだろう」
結局、「助け合い精神」なんてのは、そういう根っこがあるように
感じてしまうんですよね。
だから極端な場合「困っていた時にあなたは助けてくれなかった」
なんて呪詛を発するヒトまでもが居られます。
結果に対する責任は常に自分自身にあるにもかかわらず、
不幸までも他人のせいにする輩。
自分のかかえている有害事象にもかかわらず、他人の世話にならないと
そいつを始末する事もできない輩。
こういう手合いは「助け合い」などといいながら、結局「お返し」なんて出来ないで
受け身で終わってしまうワケです。
奉仕なんて簡単な事です。
極端ですが、なにも持たないヒトであっても
自分捨てて差しだす事だけはできるんですからネ。
年の瀬のこの時期、
「奉仕」ってものの満足感を知っても損は無いよなぁと思うちすなのです。
技術進歩悪玉説
Taking a lesson from the past
(To Say Nothing of the Cat!)
ヒトという生き物は常に、自分にとっての不利益の理由として
悪役を作り出して、自分自身の反省をごまかそうとする特性があります。
そんな中でも最たるものは「技術進歩悪玉説」でしょう。
これはヒトが成立してからの由緒ある性質のようです。
「昔はよかった、今の時勢はなっとらん」
みたいなのは古代エジプトからあったわけでして、
この嘆きの中には礼節や思想の変遷に対するものだけではなく、
自分がついていけない技術に対しての焦りも多分にあったようです。
いや、文字のなかった頃から洞窟の中では、
「まったく、最近のヒトは道具に頼ってばかりでなっとらん。サルの頃はよかった」と
長老が嘆いていた事と思います。
いや、もっと遥か太古の海底ではアノマロカリスの長老が
「シアノバクテリアの頃はよかった」と・・・(爆)
かつて、ゲームマシンが登場した頃。
悪魔の機械のように唱えていた方が多くおられたのを覚えてられる方もいるでしょう。
こういう方々は得てして頭に電波の来ている方が多いので、
その説も個性がなく画一化されています。
「子供達が現実と虚構を混同する」とかって・・・
1人ぐらい違うことを言えばそれなりに面白いのですがおられませんでしたねー。
ちょうど最近流行の「二酸化炭素は悪者でっせ」論の方々のようです。
そもそも、「現実と虚構を混同」とかっていわれましても、
遡ったら旧約聖書まで行ってしまうと思うんですが(笑)
きっと、こういう方々には神の国は遠いのでしょう。
ゲーム機の前にはテレビジョンがそのような悪名をいただいていたそうです。
「テレビジョンの電波は子供の脳細胞の発達を阻害する」とかって。
いやいや、さすが電波の方々だけあって電波にはお詳しい(笑)。
そういえば携帯電話の電波で脳がどうにかなるとかって話題も
ありましたですね。確か1日7時間以上携帯電話で話していると
危険であると・・・確かに家計がピンチになります。
「ワープロで書いた文章には想いがこもっていない」
なんてのもありましたですね。
ちすは念のこもった文字などというのは、
呪詛の札や式神をいただいているだけで間に合っていますので、
想いだなんてそんなややこしいもののこもったモノを欲しがるとは
世の中には物好きなヒトも多いんだなぁと思っていたところ。
今度はそのワープロがパソコンに取って代わられた頃には、
「ワードプロセッサーは日本のものづくりの象徴であった」
と評されていました(爆)
過去を尊ぶというのは、その精神を尊ぶことであり、
技術は常に最新である方が便利だなと思うんですよね。
古の言葉の旋律の美しさに常々感動しているちすですが、
だからといって、現すのはディスプレイの画面やトナー印字で充分。
そいつを墨跡黒々と亜麻布にしたためようなどとは思いません。
勿論、世の中にゃ改変の必要もないのに
無駄に発展させたようなやつもありますが、
こういうのは技術とも思っておりませんので。最初から省いています(笑)
「現実と虚構の混同」の危険を訴えている方々は、
「虚構と現実の比較」は危険だと思われてないのでしょうか。
♪ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
淀みに浮ぶうたかたは かつ消え かつ結びて
久しくとどまりたる例なし♪
冷たい統計学
The Cold statistics
普段より、大量生産されたパン食は身体に悪いという事を訴えているちすですが、
最新の統計学的な調査結果においても、
パン食は危険な食べ物であるということがわかりました。
白い皿回しなどをしている場合ではないのです。
みなさん、健康の為にパン食を節制いたしましょう。
ではその調査結果をご紹介します。
・米飯食が半数を占める現在の給食で育った児童と比較すると、
学校給食が全てパン食だった昭和40年代の児童の体格は20%以上劣っている。
・パン食を日常的に食べて育った子供の知能は、おおむね50%が彼らの平均点を下回る。
・パンを常食する者の暴力犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
・犯罪者の更生を目的とする刑務所において、パン食が食される機会は5%以下である。
・パン食は禁断症状を伴う中毒症状を引き起こすことが臨床実験で証明された。
被験者に二日間パンと水を与え、三日目からは水だけを与える実験をすると、
四日目には被験者の95%がパンを求めて苦しみはじめる。
・新生児にパンを与えたところ、
その92%においてのどを詰まらせて危険な状態になることがわかった。
・警察庁の資料によると、運転者がサンドイッチ等のパン類を食しながら運転をしていて
事故を起こした件数は。運転者が車内で弁当を広げて食しながら運転をしていて
事故を起こした件数をはるかに上まわっている。
・日常食するものの中で、パンの比率が現在の倍近かった18世紀のヨーロッパでは、
人々の平均寿命は50歳にも満たなかった
・世界一犯罪の多いニューヨークでの調査によると、犯罪者の98%はパンを常食していた。
・市中のパン工房と違い、大規模なパン工場においては製造時に、
防護服と帽子・手袋・マスク等の着用を義務づけ、
従業員がパンに汚染されないように保護している。
・パン食を常食する事は思考力の低下をもたらす。
なぜならパン食を常にしている者はこの統計に立腹するが、
パン食以外の穀物を常食しているヒトの多くは
冷静にこの統計の問題点に気がついて笑っている。
十戒
Ten Commandments
神様が十戒をもって地上を歩いていました。
「十戒ーっ、十戒はいらんかねー」
ここしばらく世は殺伐としてしまい、誰も神様に捧げ物をしません。
おかげで神様はすっかりやつれてしまいました。
このままでは神も仏もなくなると思った神様は十戒をもって地上をまわり、
人々に信仰をもってもらおうと思ったのです。
さて、最初に神様はフランスに行きました。
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、姦淫するなかれ」
「いるかっ、そんなもん」
つづいて神様はロシアに行きました。
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、偽証するなかれ」
「いるかっ、そんなもん」
今度はドイツに行きました
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、みだりに唱うべからず」
「いるかっ、そんなもん」
神様はイタリアに行きました
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、隣人の妻を貪るなかれ」
「いるかっ、そんなもん」
ではではアメリカ
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、殺すなかれ」
「いるかっ、そんなもん」
西洋はダメだとおもった神様ははるばる日本をたずねました。
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、我のほか何物も神とすべからず」
「いるかっ、そんなもん」
今度は中国
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、盗むなかれ」
「いるかっ、そんなもん」
そんでもってインド
「十戒はいらんかね」
「何が書いてあるんだ?」
「えっと、汝、偶像を刻むべからず」
「いるかっ、そんなもん」
神様はすっかり疲れてしまい、アラビアの海辺ですわりこんでしまいました。
そこに通りかかったのはユダヤ人でした。
「あんた、何やってんだ」
「十戒を持ち歩いてるんだよ」
「へぇー、そいっぁいくらなんだ?」
「金なんぞいらん」
「なにぃっ!タダか。だったら2個くれ!!」
かくして十戒は陽の目を・・・(笑)
アリとキリギリス
THE CRICKET AND THE ANTS
焼けつくような夏の陽の下で、アリさんは休むことなくせっせと働いていました。
家を作り、子供達の世話をし、出来る限りの教育を与え、
そして来るべき厳しい冬に備えて食べ物をたくさん蓄えました。
キリギリスはそんなアリさんをあざ笑い、その場限りの思いつきで
好き勝手なことを言い、毎日を適当に遊びまくっていました。
やがて冬がやってきました。
寒さに震えるキリギリスは、インターネットに書き込みをしました。
隣人のアリさんが暖かい家に住み、 おいしいものを腹いっぱい食べているのに、
自分は家もなく飢えて死にそうだと写真付きで訴えたのです。
それを見た虫達は、アリさんの裕福な暮らしぶりと、死にそうなキリギリスの
くらしぶりを見てビックリ。
そして普段から手をつなげは平和が来ると訴えているイナゴ達が騒ぎ始めたのです。
彼等は、豊かなはずのこの国で、
かわいそうなキリギリスを放置して許されるのかとわめきたて、
それはやがて各地でデモに発展しました。
デモ隊はアリさんの家に投石、進入し、略奪までしたのです。
とうとうこのことは議会でも問題になり、
社会の格差を埋めるためにと税制改革が議論されました。
結果、アリさんには夏の初めにさかのぼって高額な税が課せられることになり、
また、気の毒なキリギリスに対して援助することができたのにしなかったとして、
罰金も科せられました。
しかし、アリさんにはそこまで支払能力がなかったため、
政府に資産と家を没収されてしまいました。
市民運動はどんどん盛り上がり、
やがて、運動の中心にいたイナゴ達はアリさんのいた家に住めることになりました。
キリギリスは保証金をもらったのですが援助を申し出たクモにだまされて
クスリに手を出し、やがてまた寒さに震える生活となりました。
クリスマスの夜。
寒さに震えながらキリギリスは、正義とはいったいどのようなものかと考えながら
静かに死んでいったそうです。
西部戦線にて
All Quiet on the Western Front
かつて欧州で大きな戦がありました。
それでもクリスマスの時だけは戦いの火は休止されたそうです。
そんな西部戦線の休戦の日。
祝福を願って祈りが捧げられました。
「神よ。変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ」
「神よ。変えることのできないものについて、
それを受け入れるだけの配慮を我らに与えたまえ」
そして、
「神よ。変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
見分ける知恵を我らに授けたまえ」
と・・・
最初の祝福を受けた方々は、戦いをいい戦いと悪い戦いに分けました。
次の祝福を受けた方々は、戦いを勝った戦いと負けた戦いに分けました。
戦いをちゃんと見分ける知恵の祝福を受けた方々は・・・。
戦いの中で死んでゆかれました。
お立ち寄られた方に感謝いたします。
今、ふと思う。
この世界で、どれだけの人間が涙を流すことか。
自分が知らないところで、泣き叫び、絶望し、死に絶えるものがどれだけ居ることか。
自分は、生きている。
嫌なこともあるけれど、それは、人生の中の軽い試練であり、私が私を変える第一歩だ。
強いものが、弱者を貶し、罵り、死に至らしめるなど、なんたる事か!
私は、出来る。
このような世界でも、元気な者がちゃんと居る。
だから、今、泣きそうになっている人へ、笑って歌を聴かせ”大丈夫だよ”と言葉をかけてやりたい。
大切な、心の音楽を、今、聴かせたい・・・・。
素晴らしい楽器とこの体を、ありがとう。
中学生が、出しゃばりました。スンマセン。
て、いきん持って
い、つもの道を
き、ょうも歩く
ん、シアワセ!
て、クノロジぃの進歩で
い、ごこちの良い生活と
き、れいな住まい
ん、〜と美味しい食べ物
て、んすう貯めて
い、ろんな景品ゲットする
き、ましたマイクロスコープ
わっ!900倍!
金魚
Goldfish
敬愛するミュージシャンのヒトが大切なテーマとして唄っておられるジャンルに
「童謡」があります。
先日もライブに行ったときに「砂山」を唄われました。
この砂山の作詞は北原白秋サンです。
北原白秋サンといいましたら名曲「万歳ヒットラーユーゲント」
の作詞で有名なのですが、
♪燦たり輝くハーケン・クロイツ ようこそ遥々西なる盟友
いざ今見えん朝日に迎えて 我等ぞ東亜の青年日本
万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナっチっスー♪
それ以外にも砂山のように心あたたまる童謡もたくさん残されています。
「金魚」
♪母ちやん 母ちやん
どこへ行つた
赤い金魚と遊びませう♪
お子様はお留守番なのでしょうか。外に遊びにも出れずに
お家の中にいるというのは手持ち豚・・・いや、
てもちぶたさなものです。
金魚鉢を眺めながら遊びにふけっているんですね。
♪母ちゃん歸らぬ
さびしいな
金魚を一匹しめころす♪
いや、殺しはヤバイでしょう。それも寂しいからって。まったく子供と言うのは
残酷なものですね。しかし、金魚のどこをしめて殺したんだろ?
♪まだまだ歸らぬ
くやしいな
金魚をニ匹つきころす♪
あのねぇ。金魚にアタルのはやめなさいよ。
他の金魚たちが怖がってるでしょ。そんなことしてもお母さんに
思いが伝わるものでもないんだからサ。
♪なぜなぜ歸らぬ
ひもじいな
金魚を三匹ねぢころす♪
えぇいっ、クソ餓鬼がぁ、金魚殺して食っちまったなー。
他に食べるものはなかったのか。金魚なんて食っても美味くないぞ。
それも「ねぢころす」って・・・絵が浮かんだじゃないか・・・エグイぞ。
♪涙がこぼれる
日が暮れる
赤い金魚も死ぃね死ね♪
アンタが殺したのっ!まったくもぅ何が死ぃねだぁ。泣きながら
呪詛たれるなんぞ10年早いわ。いや、10年経ってもダメだけど。
♪母ちゃん怖いよ
眼が光る
ピカピカ金魚の眼が光る♪
あたりまだぁ!。金魚を6匹も虐殺しておいて怖いなんて言ってる場合か。
残りの金魚たちは理不尽な虐殺を許さないぞ・・・たぶん・・・
何にも考えていないみたいだけど・・・きっと考えている・・・だろう。
そもそも母親はどこいったの?
え、お子様が金魚殺して遊んでばかりいるから、
補充の金魚を買いに行ったって・・・
サンライズアイランドへいらっしゃい
Welcome to Sunrise Island
長寿の時代、
これから次々と長い長い休暇に入られてゆく団塊世代の皆様。
一握りの方以外は社会に出師をもう求められることもなく、
召される日までの年月をいかにして過ごそうかとお悩みの事だと存じます。
そんな皆様の為にまったく新しいコンセプトで作られた夢の島。
それがサンライズアイランドです。
サンライズアイランドは4つのテーマランドからなり、
それぞれのテーマに沿った素晴らしいアトラクションをラインナップしています。
ひとたびアイランドに足を踏み入れたら、
きっと皆様の幸せが見つかるはず。
アイランドの仲間たちと一緒に、素敵な思い出をつくりましょう。
なお、アイランドにおいては夢の島のイメージを大切にするために、
お手伝いをするスタッフは「原住民」と称し、
アイランドを訪れていただいた皆様を「開拓者」とお呼びしております。
それでは、ワールドのご紹介です。
「チャレンジャーランド」
団塊の世代にとっての「挑戦の思い出」
それは若い頃に血をたぎらされた学生運動に他なりません。
そこでチャレンジャーランドでは、歴史を美しく彩った著名な闘争を模した
数々のアトラクションを設定し、開拓者に参加していただいております。
全天候型のドーム施設では深夜の国会議事堂へのシュプレヒコール。
暁の安田講堂での放水銃体験。
野外施設では代々木公園での火炎瓶合戦や日比谷音楽堂の焼き討ち。
メインストリートではアカシヤの雨にうたれながらのフランス式デモなど、
多彩なメニューが開拓者をお待ちしています。
アクセサリーのヘルメット、角材、タオルは各種セクトのものを取り揃え、
火炎瓶もお好みに合わせて東大型、京大型、日大型をご用意致しました。
原住民が扮する機動隊も占拠には四機。デモ鎮圧には一機と、
マニア心をくすぐる部隊マークを盾に付けてお迎えいたします。
また、体力的に直接闘争に参加できない皆様の為には、
アジビラの早きり競争や立てカンの場所取り合戦がございます。
最新式の採点機が装備された歌声喫茶におきましては、
原住民によるヤジのサービスが飛び交う中、
プロテストソング歌合戦やアジ演説大会が開催されています。
その他老いてもなお盛んな開拓者の為に、特別イベントとして
原住民による肉体オルグのサービスも行っております。
毎月15日のスペシャルデーには希望された開拓者の中から
抽選で選ばれたお1人がデモ隊に踏まれて圧死することが出来るという
素晴らしいイベントもご用意しております。
「ボランティアランド」
いまやボランティアは小市民のステータスです。
不幸に苦しんでいる人々に優しい手を差し伸べる・・・
あぁなんという自己陶酔でしょうか。
社会において「すでに私は不要なのではないか」という不安を抱かれている
開拓者に対して「あなたの手助けが必要なんです」と訴えてくる要請。
今までさんざん汚してきたお心が洗われていくような
自己満足にひたることができることと思います。
しかし、実際にボランティアをしようとしても、
いったい何をしていいのか判らないという方がほとんどでしょう。
あてがわれた業務を黙々とこなしてさえいればよかった社会生活の日々。
そのような方々が自分の何が役に立つのか、
自分に何が出来るのかを捜す事は容易なものではありません。
また、ボランティアをするための準備も大変ですし、
劣悪な環境での活動の中には危険を伴うものもございます。
ボランティアランド。ここにはそんな開拓者の為に、簡易かつ快適に
さまざまなボランティアを体験できるアトラクションドームが用意されています。
瓦礫の中を駆け巡る震災ドームや火の粉の降り注ぐ噴火ドーム。
砂浜で家具を拾う津波ドーム。荒波狂う中でヒシャクをふるう重油ドーム等、
リアリティな風景にあふれながらも、清潔で空調の整っている快適な環境で、
そんな数々のボランティアを体験していただけるようになっております。
災害ドームでは感動的な人命救助のシーンに
立ち会う事が出来るというイベントも用意されています。
また、災害現場には実際の災害での罹災者の方々をアドバイザーや
原住民スタッフとして高待遇で迎え入れ、
確かな事実考証を図るとともに、被災地域の雇用助成にも努めております。
災害ドームに対して、現在多くのボランティアドームのなかでも
人気を誇っておりますのは「ホームレスドーム」です。
この中は寒風吹き抜ける真冬の公園のイメージが設定されており、
公園のあちらこちらには厳正なオーディションで採用された
プロのホームレスの皆さんがダンボールやブルーシートの中で暮らされています。
もちろん彼等は、ニコチン依存症、アルコール依存症等の
さまざまな疾患に罹患されたプロ中のプロの方々であり、
その悲惨な状態を保つために医師の厳重な管理の下、
疾患を維持するに充分な量の酒類・煙草・その他嗜好品が提供されています。
公園の入り口には暖かいスープとパンが用意されており、
アトラクションに参加する開拓者はこのホームレスの方々に、
スープやパンを配ることで、
我が身の幸せと満足を実感することができるのです。
時にはホームレス狩りに扮した原住民の攻撃から身を挺して
ホームレスの方々を守るという感動的なイベントも用意されています。
ボランティアランドの各ドームには必要な装備とお着替え。
またジャグジーを備えたパウダールームが装備されておりますので、
開拓者は何一つ準備する必要はありません。
「タキシードでやってきてボランティアの快感」をコンセプトとしております。
サンライズアイランドへいらっしゃい(2)
Welcome to Sunrise Island
「イエスタディランド」
イエスタディランドでは「古きよき時代」といわれる1950年代の
我が国の風景を完全に再現しています。
もちろん中途半端な見てくれだけの再現ではありません。
街角に置かれたゴミ箱にはハエが飛び交い、ドブ川からはメタンの泡。
路地裏にはネズミ達が走り回っています。
子役の原住民達は垢にまみれ、その頭には毛シラミが巣食っています。
町を行く野犬の1/10は狂犬病に罹患し、道路の大半は未舗装の土の道。
砂ぼこりを立てて走り去る自動車の排気ガスは窒素酸化物を大量に含み、
工場地帯から吹く風は化学物質を含んでいて開拓者の目を刺激します。
駄菓子屋に並ぶ菓子類はどれも大量の化学添加物を含有し、
産地から安全検査もなく直送される新鮮な食品は寄生虫の卵にまみれています。
精米技術の未熟なご飯は炊き立てでも麹臭を放ち、
水と石鹸で洗われただけの衣類はいたるところに染みが残り、
食器には洗いきれなかった食品の香りが残っています。
入浴は1日もしくは2日おきに銭湯に行っていたので、人々の体臭は強く、
町全体も未発達な公衆衛生環境の為に強い臭気におおわれています。
開拓者はここで過ごし、殺人ラッシュ、すり・かっぱらい、浮浪児の襲撃、
公害病、帰国船、赤狩り等の数々のイベントを体験することで、
古きよき時代が現実にどのようなものであったかを
鮮明に思い出すことができるのです。
なお、徹底したリアリティを求めておりますのでイエスタディランドの
医務室の医療水準は1950年代のものとなっております。
ご健康に自信のない開拓者は入場の前に原住民にお声がけをいただき、
医療保障等に関する権利を放棄する書類に、
ご記名捺印をいただきますようお願いいたします。
「ファンタスティックランド」
彼岸への快適な旅立ちを夢見ない方はおられません。
ましてやそれが間近に迫っていると感じておられる団塊世代ではなおさらです。
誰もが求める夢の旅立ち。それは無病息災ポックリ往生です。
そのような、健康の為なら命すら惜しまない開拓者の為のテーマランド。
それがこのファンタスティックランドです。
ファンタスティックランドでは開拓者の好みにあわせてさまざまな形の
往生のアトラクションを用意しております。
・おだやかな日差しの中、ふと手を休めた野良仕事とともにおとずれる突然死。
・経典一つを持って洞窟にこもり、信仰とともに迎える即身成仏。
・あてのない旅に出て美しい空を眺めながらの優雅な野垂れ死に。
・幼い命を守って身を挺し、力尽きて迎える感動的な最期。
どのアトラクションにおきましても鼓動停止から脳波が検出できなくなる
最後の瞬間まで間違いのないご案内をいたしております。
また、生涯最大のアトラクションとして「寿命レース」へのご参加もできます。
開拓者達は全財産と共に巨大な寿命ドームに入り、
与えられたブースで余生を過ごします。そして開拓者の寿命が尽きるごとに
持参された財産が積み立てられ、
最期に生き残ったお1人がその全ての財産を手にすることができるのです。
「何が何でも生き残れば勝ち」これほど感動的なアトラクションはないでしょう。
先日も大激戦の末、莫大な賞金を手に入れられた開拓者がおられました。
なおこの開拓者は大金獲得の興奮の為、
優勝と同時にその場で大往生を遂げておられます。
いかがでしょうか、夢と冒険と幻想のサンライズアイランド。
皆様もどうぞご来島ください。
陽の当たる往来
On the Sunny Side of the Street
「Sunny Side」
いつだって誰だって、陽の当たる事は素晴らしいものです。
Sunny Sideを歌った唄はヒトを元気にしてくれるものです。
「Sunny Side of Life」「Keep on The Sunny Side」etc.
そんな中
ちすの元気のタネになるSunny Sideは
「On the Sunny Side of the Street」です。
「往来には陽の光が当たる側と陰になる側があるから、
陽の光が当たる方を歩かなくっちゃ」っていう曲。
「さぁ、一緒に行きましょう」でもなく「きみと行きましょう」でもなく、
「私は日の光が当たる往来に居よう」ってのがとても元気になれます。
ヒトは独りで歩くことを恐れるがゆえに、
たとえ日陰であっても群れになっている所を選ぼうとします。
そんな中で陽が差して来るのや、
誰かが陽の当たるところに連れて行ってくれるのを待っていたところで、
何もやっては来ません。
ましてや、陽の当たる往来は狭く、陽の当たる所は小さいのです。
待っているだけのヒトまでもが入る余地などはありません。
まずは陽の当たる往来に踏みだしてみることが大切です。
♪さあ、コートをはおり 嫌な事は置いて
出かけよう 陽の当たる往来へ
足音軽く きみと歌っているよ
出かけよう 陽の当たる往来へ
暗い気持ちで 誰かと一緒に
日陰にいても みんな辛いだけ
独りじゃないさ 人生は素晴らしい
往来には 輝く明日がある♪
Proverb
鬼遊笑覧。
最初のスタートから数えましてまもなく3年になります。
3年というのはよく一つの節目として使われる時間で、
「石の上にも3年」とのことわざもあります。
これは、毒にも薬にもならないような石の上であっても、
三年も座っていたら間違いなく「痔主」になってしまう。
つまり、一見害がなさそうなものであっても長くかかわっていては
ロクな事にならないという先人のありがたい教えです。
具体的には平和・友情・仲間というのが代表的なものでして、
これは宗教・借金・暴徒と同義語です(笑)
この手の事を口にしながら近づいてくる輩には
3年どころか3日ぐらいでも深くでもかかわるとロクな結果にはなりません。
古人の残された言葉には深い戒めを含めたものが多くありますが、
時の流れと共に本来の教えとは違った解釈になっているものも少なくありません。
「雨降って地固まる」
雨が降りますと地盤は弱くなります。これは誰でも知っている事実でして、
雨の降っている日に地盤の弱い山道を歩いたりすれば遭難することは必至です。
何故に地固まるなどと言うのか。
これは世の中には危険な状態であるにもかかわらず
行かなくてはならない事が多々あり、
そういうときに「いや安全ですよ、雨が降って地は固まるんですから」
と説くことで危険性を覆い隠そうとしているわけです。
海外派兵反対、基地配備反対、原子力発電反対などと口にする輩に対して使われます。
「長いものには巻かれろ」
短いものは巻けません。こんな事を言われなくっても
当たり前のことなのです。では何故当たり前をわざわざ言葉として
残しているのかといいますと「短いものでも巻けるかもしれない」
という期待を与え、短いものをひとまとめにして、
見張りやすいようにするためのものです。
実際に、短いものをどれだけ用意しても巻けるものではありません。
また、短いものをつなごうとして無理です。
そもそも、互いに手をつなぐようなことができないから短いのです。
一致団結、力をあわせて、手を取りあって、などと口にする輩に対して使われます。
「我田引水」
自分の田んぼには自力で水を引いてこないと誰も助けてはくれません。
他人をあてになどしてはならないという先人の教えであり、
決して忘れてはならない大切な事です。
昨今、この言葉の意味を取り違えている方を見受けますが、
こういう方は他人の田んぼの水であっても自分の田んぼに引き込んで
使おうという根性をお持ちなのでしょう。
「一石二鳥」
一つの石に二羽の鳥が留まることはできません。
また、無理に留まろうとすると二羽とも落ちてしまいます。
という事で、小さな幸せを無理に分かち合うというのは
二つの不幸を生む事にしかならないと言う教えです。
そもそもが皆が特定の石にこだわらなければ
そのような不幸も生まれることはありません。
「身の程を知りなさい」という大切な意味も含んでいます。
「杓子定規」
杓子というのはしゃもじの事です。
しゃもじのような形状のものを定規に使ってはまともな線は引けません。
つまり、
世の中は規則を臨機応変に曲げて流用しないと立ち行かないという教えです。
「規則規則とそんな杓子定規な事を・・・」
などという苦情は使い方を間違っています。
杓子定規に規則を使っていないから窮屈になるということなのです。
まぁ、こういうことをおっしゃる輩はそもそも論理が杓子のように
ひん曲がっておられる方ばかりですので気がついておられません。
「規則を無くそうという規則」を守っておられる方に対してよく使われます。
「言わぬが花」
相手に気を使って言わないでいるといい気になって派手に咲こうとするが、
そんな花に実はならないという教えです。よしんば実をならしたとしても、
そういう輩のならす実は毒を含んでますので何の役にも立ちません。
花になる前に摘み取って暖炉の火にくべてしまうのが最良の方法です。
「人のふり見て我がふり直せ」
他人の不利益をしっかりと観察して、
自分はそのような不利益をこうむらないように気をつけましょうという教えです。
たいていの場合、他人が不利益をこうむっているときにはその周辺に
他人が落とした幸福が落ちているものです。近づいて手助けを
するようなふりをして拾ってしまうのが得策です。
「困ったときには声をかけてね」
などと言っている輩にはかかわらないほうがいいと言うことです。
「転ばぬ先の杖」
転ぶ恐れのないうちに杖ぐらいは用意しておきましょうという教えです。
転んでからでは杖どころか大きな援助が必要です。
えてして転んで助けを請うような輩に限って
転んだときに周囲にかけた迷惑や、
助けてもらった恩をまったく気にもしないで
その後もうろうろと歩き回ろうとします。
このような迷惑な輩は穴を掘って転がして埋めてしまうしかありません。
「天は二物を与えず」
二つはありませんが一つぐらいは与えられているのです。
身の程知らずに二つも三つも求める輩は、
大切なその一つも有効に使えぬうちに役立たずにしてしまいます。
「帯に短し、たすきに長し」
中途半端で役に立たないもののように誤解されていますが、
切ってたすきにすればいいのであって、
帯などを目指さなければ充分に役に立つということです。
ときに「帯にもたすきにも短い」くせに
着物を望むような輩がいるのが始末に困るところです。
「果報は寝て待て」
寝ていても暮らせるような身分の者にはいい事があるとの教えです。
従って「おきていないと生きていけない人」はしてはなりません。
ちなみに、
「生きていけないが寝ていたい」という望みを持つヒトは、
社会の寄生虫と呼ばれ排他されますが、
「生きていけないが寝ていないといけない」という病気と診断されたヒトは、
社会保険の寄生虫と呼ばれ心配されます。いい時代です。
「終わりよければすべてよし」
よくなるまで決して終わってはならないという教えです。
鬼遊笑覧はまだまだ終われそうにありません
The Chrysanthemum and the Sword
本日は東京地裁山口良忠判事の60年目の祥月命日です。
やっと年がまわり、判事の御霊も彼岸の彼方に旅立たれました。
このあいだ現在の祖国の現状を見られ、どれほどの思いを
いだかれたかと考えると含羞つのるちすです。
山口判事。敗戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否し、
食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ死亡された事で知られます。
判事の日記にはこうあります
「私はソクラテスならねど食糧統制法の下、
喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘って餓死するのだ」
判事の立場でありますから、いかようにも食糧を手に入れることも
できたでしょう。しかし、山口判事は自らの倫理に従って死を選んだのです。
「倫理」
ヒトは弱いモノです。
山口判事のように生き抜く事はまず難しいことでしょう。
それでもせめて一歩でも近づく事を考えることも必要な事では
ないのでしょうか。
「ヤミ」は食料に限ったものではありません。
現代でも、物資・嗜好・恩恵・・・たくさんの「ヤミ」があります。
「本来ならば自分が手に出来るモノではなかった」
「平等にゆきわたるモノではなかった」
そういう「ヤミ」を誰しもが抱え込んでいる筈です。
そしてその事を、その負い目を享楽の下に埋めて忘れ去ろうとしている。
酷い場合は、おすそ分けや引き継ぎの名のもとに「共犯者」を作ることで
背負った罪を分散しようとしています。
背負ったヤミは自分だけの罪として地獄に持ってゆくべきものなのです。
傲即ち悪
悪即ち漸
山口判事が特別なヒトではなかったと言える生き方を求めたいものです
Long night of autumn
秋の夜長
だらだらと家族でしゃべっていたり、お酒のアテに軽い読み物などを
手にしていて、
ふと時計を見ると「あらまビックリ日付変更線」などと言うことが
よくあります。
そうすると翌日のお勤めがとっても辛くなるわけでして。
先日もちすの睡眠時間は4時間弱。
ナポレオンなら充分。ヘタすりゃ二日分なんでしょうが
ちすは彼ほどのチビでもデブでもハゲでもないので(笑)
とっても睡眠不足でありました。
従ってそれをどこかで補わなくてはいけないわけでして、
まず手っ取り早い補完場所といたしましては痛勤列車。
幸いに・・・言うか不幸と言うか都心部の朝の列車はむりむりに混んでいます。
都心部に棲息以外の皆様は、今まで経験した中で1番人口密度過多の状況が
毎朝繰り返されていると御理解下さい。
さて、そんな状態ですからなんとかどこぞのコーナー部分を確保すれば
立ったまま寝ることは可能なのです。
と、いう事でちすは列車の揺れるにまかせ、ご近所の皆様にぶつからないように
ふらりふらりと惰眠をこいていたのでありました。
このふらふら揺れながらのうたた寝と言うのは気持ちのいいものでして、
文字通り時のたつのも忘れてしまうってやつで、
周りの気配に意識が戻ると、乗り換えのターミナル駅に到着しておりました。
「いかんいかん、降りなくては」と動き出すちす。
この、寝起きの状態と言うのはお身体には非常に危険な状態だそうで、
アタマは起きているのですが身体はまだ寝ているという状態です。
こいつが通常の就寝中に起きるのがいわゆる「金しばり」ってやつですね。
そんな半分金しばり状態のちすはモーローとした意識のまま、
ヒトの流れに身をまかせ、たらたらと階段を降っておりました。
その時、世界が歪みました。
いや、ホントそう思ったのですよ。いきなり目の前の風景がモノクロになって
墨流しのように内回りになったかと思うと「ウルトラQ」の文字が・・・(笑)
「な、なんだこりわ。宇宙怪獣ゼットンの重力攻撃かっ!。
いや、そりは古いであろう。せめてダークバルタンだぁ
ぐらいの事を言わないと若年層の皆様には通じないぞ」
などと1人ツッコミをしている場合ではありません。
とにかく、意識が一瞬のフラッシュバックの後、
気がついたらちすは階段の一番下にちんまりと座り込んでいました。
「うわぁ、テレポーテーションじゃぁ!!いつのまにこんな能力が・・
いかん、こんな事ができると知れたらお船に乗って楽園に御招待じゃぁ」<(アホっ!)
ふと気がつくと、周囲の方々の不安そうな視線・・・
気がついたちすは立ち上がり、
何事もなかったかのように改札口に歩いて行こうとしましたら駅員サンが
「大丈夫ですか?」「あ、はい」「凄く落ちてられましたがお怪我は?」「いえ・・」
(そうかぁ凄く落ちたのかぁ・・・知らなくってよかった・・・
知らないと言うことはすごいなぁ。知っていたらきっと怪我をしているぞ
<(どういう論理だ)
やっぱ凄い落ち方と言うからにしてムーンサルトでもかましたのかな。
それとも前方抱え込み三回転ひねりとか・・・
いやいや、そもそもがどこから落ちたのかもわかってないぞ。
駅の防犯カメラにでも写ってないかなぁ・・・)
などと無事だったのをいい事に、
つまらない事を考えながら職場に向かったちすでした。
職場についてとりあえず怪我はないかと、
お手洗いで下半身を検証してみましたところ、
腰に軽い打撲があるだけでさしたる外傷はないようでした。
よく受け身の場合、下手に力が入っていると怪我をするとかって言いますが、
文字通り意識を失ってすっ転がり落ちたので無事だったようです。
これも日ごろからの殺生による神の無慈悲のおかげと(笑)、
便器のフタにへたりこんで大きくため息をつくと同時に安心したためか
またまた睡眠不足の魔の手が・・・
・・・ぺと・・・
意識がもどって気がつけば、
お手洗いの個室の壁にアタマが張り付いておりました、
そして、またまた「金しばりモード(笑)」
壁にへばりついたアタマは重力に従い、そのままずりずりと、
床に向かって降りてゆこうとしています。
「いかん、身体さんっ!!目を覚ますんだっ!
このまま落ちたらペーパーホルダーに顔が激突にゃ。
そんなことになったら怪我をする。いや、
その前にその助けなどを呼んだひにゃあ末代までの恥。
ただでさえ塵・芥に近い職場での現在の信用が
馬頭星雲の水素分子濃度以下に下がるのは必至。そりわまずい・・・・」
あせる思いとはうらはらに、迫り来るペーパーホルダーは
あたかもトレドの異端視審問所につり下げられた振り子のごとく・・・
秋の寝不足にはくれぐれもお気をつけ下さい。
Early Morning Corbicula
休日に運動会があったので代休となった月曜日。
ご家族が休日の爆睡にひたっている朝もやの中、
ひとりお仕事モードのちすは目覚めの最悪な気分にムチ打って
起床しようといたしておりました。
睨みつけようとも懇願しようともその進行を止めようとしない枕元の時計との
戦いに諦めをつけ、布団の中で大きく伸びをしたとたん、
右手はお子様の背中に、左足はニャンコのお腹に激突・・・
「うみゃっ!」と同時に抗議の声を食らったちすは、思わず縮こまり、
その瞬間に右足がこむら返りを起こして・・・「みぎゅーっ!!」
声にならない痛みの中、ぐみぐみとつま先を引っ張って対処し、
ベットから床に足を下ろすと右足のつま先裏になにやら異様な感触が・・・
「こ・・・こりわっ!」
薄闇の中でちすの足裏にかがやくそれはニャンコの吐いた毛玉でした。
それも出されて間もないネコ肌のホカホカ・・・
「うーみゅ・・・」
ニャンコの何がすごいって、毛玉をお吐きやがって、まだぬくもりのある
程度の時間しか経っていないのにそのような行為をしたこともすっかり忘れて
すぴょすびょと爆睡こける事ですね。感心感心。
いや、小型肉食獣に感心などしている場合ではありません。
この足の裏をなんとかしなくては。
ちすは「かかと歩き」で寝室を出て洗面所に向かい、
不幸な右足を洗面台に置いて毛玉を洗い落とそうとしました。
そして、大きく足を振り上げて洗面台に乗せたそのとたん、
ちすの全体重を一手に引き受けた左足がこむら返りを・・・
「ふみゅーっっっ!!!」
痛かったですー、はい。めっちゃ痛くて涙ぐんじゃいました。
男が泣くのは親の死んだときと財布を無くした時ぐらいだと亡くなった
祖母様がおっしゃっていましたが、これからは
「起き抜けにこむら返りした足でネコの毛玉を踏んづけて、
あげくに反対側の足もこむら返りを起こした時」
も追加していただきたいです。
うぐうぐ泣きながら汚れた右足を洗って、洗面所にうずくまって左足をぐみぐみと
引っ張るちすって・・・哀れです。
さて、
おかげですっかり目が覚めちまったのでキッチンにいって朝食を・・・
あ、「ほかほかネコ肌毛玉」ですが、ちすオクやお子様が起き出した際に
踏んづけるやもしれませんのでそのままにしておきました(笑)
えぇいっ!踏め踏めーっ!!
<(逝ってヨシ)
朝食といってもご家族爆睡(ネコ含む)状況の休日(ちす含まず)の朝ですので、
1人寂しく個食の準備です。
よく、個食は青少年の健全な精神成長の妨げになる
とかとかとのたまわれていますが、
健全じゃない中高年の精神成長の妨げにもなりますです。絶対。
冷蔵庫からタマゴとベーコンを取り出してフライパンで調理し、
お漬物とお野菜を出して、ご飯をよそい、お茶をいれ・・・・
お味噌汁・・・面倒くさいです。はい。
どうせご家族が起きてきやがられるのはお昼前。今お味噌汁を作りおいても
ワカメの色は変わってるし、お味もしょっぱくなっています。
家長としては
そのような美味しくないお味噌汁をご家族に食べさせてはなりません。
と、もっともらしい言い訳をアタマの中でのたまった後、
ちすはキッチンカウンターの扉を開いて自分の為の
インスタントのお味噌汁の物色を始めました(笑)
インスタント食品というのは、常食していると
ノーミソのほうもインスタント並みのレベルに劣化いたしますが、
たまに口にする程度でしたらその毒素にもなんとか対応することができます。
まぁ、日常生活においてはその劣化インスタントノーミソを保持する方々と
接触する機会が50%を越えているのですから、
この程度の事を気にしていても仕方はありません。
と、いう事で備蓄棚から引っ張り出したのは
「殻付きシジミのお味噌汁料亭風」
この「料亭風」とかって表現ですが、
よくインスタントの和風食材に冠されている事が多いのですが、
いったいどこが料亭風なのかについてちすは存知ません。
実際にこのような食材を料亭が出したら顧客のちゃぶ台返しは必至であり、
顧客が政財界の大物でしたら料亭の将来は風前の灯。
ましてやヤクザ屋さんの偉いヒトなんかでしたら、板前さんは東京湾の
アナゴさんのご夕食になってしまいます。
鬼遊笑覧をお読みのお方で「いや、私は料亭風の味の料亭を知っている」
という方がおられましたらそのお店の詳細な地図をつけてご一報いただきますと、
ちすが高性能爆弾をしかけに・・・あわわ
いや、料亭爆破計画のお話ではありません。
「殻付きシジミのお味噌汁料亭風」なのです。
身体にいいとか肝臓にいいとかとお昼のテレビジョンで紹介されてから
居酒屋のメニューのお味噌汁のアタマに「シジミの」とかって記されている
ことが多くなりました。まだ捏造が発覚していないようですのでしばらくは
この記載は維持されると思います。
そもそもが飲酒と言う行為をしている状況で身体や肝臓に優しいことを
したとしても、その効果は環境破壊に心痛めてマイ箸やエコバックを持ち歩く
程度のものなんでしょうが、自己満足がもたらす精神的な平穏を考慮すると
多少の効能はあるのであると思います。
と、いう事で常時二日酔いの朝を迎えているちすとしては数多備蓄されている
インスタント味噌汁の中からシジミの味噌汁を選択したのは当然の
事であります。
と、まぁシジミの味噌汁を前にひとしきりぶっこいている間に
ベーコン卵も焼きあがりましたので、
件のシジミの味噌汁の元を吸椀に入れ、熱湯を注いでお味噌汁にして、
美味しく朝食をいただきはじめたとたん、「グカリッ!」と・・・
なんとシジミの身に砂が残っていたのです。
「うーみゅ、砂が有ると言うことはこのシジミは本物であるか」
などと感心している場合ではありません。
普段砂を噛むような思いはしていても実際に砂は噛みたくありません。
二日酔いにシジミの味噌汁と言う精神的な平穏も環境問題も
すべてこの砂に壊されてしまいました。
「えぇいっ、この怒りをどうしてくれよう・・・そうだ、不幸は撒き散らすに限る」
ちすは「味噌汁に砂が入っていた」事の報告にかこつけて、
ちすオクの健やかな睡眠を妨害すべく寝室に入って行きました。
そして1歩踏み込んだとたん
右足のつま先裏になにやら異様な感触が・・・シクシクシク
Croquette and bread
都心なのに昔ながら風情の残る街に降りてゆく道。
時の流れから忘れ去られたようなとある商店街の片隅に
「コロッケパン屋」があります。
パン屋でもコロッケ屋でもなく「コロッケパン屋」
揚げているのはコロッケだけ。売っているのはコロッケパンだけという
とても正しいコロッケパン屋なのです。
ただし、「コロッケ」と「パン」の単品でも売られています。
この店を見つけてから数年。
「いつかは食そう」と思いながらついつい行きそびれていたのですが、
先日たまたま時間に余裕のある
外出の機会があったので意を決して訪ねてみる事にしました。
ちなみにこの店、屋号を「ホウライ屋」というらしいです。
「らしい」と言うのは今回コロッケパン購入の為に店舗に接近遭遇するまで
屋号の看板が存在することすら知らなかったのです。
いや、なにもちすがよる年波で視力が弱った為ではありません。
あまりにもうすら汚れた看板は空間迷彩となって店舗の板塀に埋没し、
数歩離れただけで完全に識別不可能になっていたのです。
しかし、この屋号なぜホウライなのでしょう。
そもそもがコロッケとホウライの因果関係がわかりません。
「蓬莱」なら大阪名物の豚まんです。
そういえば「551の蓬莱」というキャッチフレーズは
「551(ここがいちばん)」という語呂合わせ」だそうです。
最初聞いたときには大阪とは思えないぐらいの面白くない語呂のセンスに
「ここのオヤジは近江商人か」と思ったぐらいです<(偏見バリバリ)
そうそう近江というと、
湖西線の「蓬莱」駅前の蕎麦屋はめっちゃ美味しく、おすすめです。
特に天ぷらが絶品で、クセのない蕎麦とのハーモニーが・・・。
いや、違う。同じ揚げ物ではあるがこっちはコロッケです。因果関係はないでしょう。
そもそもがここの店主が蕎麦を食べに
近江まで出かけるなどと言うことは考えられません。
見た目からしてそういうタイプではなく。
どちらかというとコロッケうどんのタイプです。
<(偏見バリバリ2)
いや、今回のテーマはホウライじゃなくってコロッケパンの経済学です。
なぜかと言うと意を決して近づいたコロッケパン屋の店頭の料金表なのです。
「コロッケパン」:200円
「コロッケ」:100円
「パン」:90円
そう、
これでは「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に価格差ができてしまいます。
もちろんですが正しいコロッケパンの伝統にのっとり、
ここのコロッケパンにはキャベツなどというものは入っていません。
ずばり「コロッケ&パン」なのです。
その上、ソースは店先にある小さなテーブルにドーンとおかれています。
では「パンにコロッケを装着するための切れ目を入れる手間が10円」
であるかというと、ここのパンは店頭で刃物を使うことの危険性を危惧してか、
全てのパンにはすでに切込みが入っています。
つまり、この店の料金体系においてはコロッケとパンを購入して、
購入者がコロッケパンを製作した方が10円安く済むということになるのです。
「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に深く横たわる10円の差。
うーみゅ・・・
そういえばJRの料金体系において、
乗車券を分割して購入すると安くなる場合があると聞いたことがあります。
しかしコロッケパンはJRが運営しているわけではありません。
やはり「コロッケパン」と「コロッケ+パン」には
なにか10円分の違いがなくてはなりません。
それが自由経済の基本です。
しかし、どう見ても「コロッケパン」と「コロッケ+パン」には違いはなく、
「コロッケ+パン」の方が別包装しているだけ包装代金がかかっているように
思えてなりません。
とまぁ、以上の経済学的考察の末、
ちすはコロッケパンを買う列の4番目の顧客として並んだのでありました。
4番目と言うのは前に3人の客が既に並んでいるということです。
通常、ヒト1人がいちどきに食することの出来るコロッケパンは多くても3個までと
思われますので、ちすがコロッケパンに遭遇するまでには、
3個から9個までのコロッケパンの通過を待てばいいわけです。
コロッケパンの製作に要する時間は1分以下でしょうから、
ちすの試算では長くても10分もあればコロッケパンに遭遇できるわけで、
それまでに正統な「コロッケパン」にするか経済的優位である「コロッケ+パン」
にすればいいかを決定すればいいと考えました。
しかし、その後10分を経過した頃・・・
ちすはコロッケパンを買う列の
3番目の顧客の地位を確保したに過ぎませんでした。
いや、なにも先頭の顧客が米国ホットドック食い選手権の入賞者で
いっきにコロッケパンを37個注文したなどというわけではなく、
彼は2個のコロッケパンを注文したに過ぎないのです。
そう、問題は店主がコロッケパンを製造する速度が異常に遅いのでした。
ハトロン紙に切り目のあるパンを乗せ、
ソースをかけてコロッケをはさんでまたソースをかけ、
ハトロン紙でくるむというだけの作業に対して店主は、
ファミレスなら「本日の日替わりから揚げコロッケ定食」を作ってサービスして
食後のコーヒーを抽出し終わっちゃうくらいの時間をかけているのです。
店舗内に小さなブラックホールでもあって、店主の周りの空間における
時間の流れが違うのかと思ったぐらいでした。
さらに10分が経過し、ちすはコロッケパンを買う列の
2番目の顧客となっていました。
すでに戦況は膠着、将兵おおいに疲弊し、しかるに戦局必ずしも好転せず
という状況。
ここに至ってちすの経済学に立った冷静な判断は頓挫しました。
「いかん、このような状態でコロッケパンを製作することは危険である。
下手をすればパンに手をはさんでソースをかけてしまうかもしれない」
そして気がついたのです。
「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に深く横たわる10円の差。
それはコロッケパンを購入するための長い道のりに疲弊した身体にムチ打って
コロッケパンを自ら製作しようとする勇気ある者のみが手に入れることができる
報償であるのだと・・・
そしてそれと同時に考えたこと
「ここでちすが、販売が簡易な「コロッケ+パン」を選択したら後ろに並ぶ顧客の
待ち時間が減るではないか・・・」と
目前の顧客が去り、列の先頭に立ったちすはカウンターに500円硬貨を音高く
叩きつけて言いました。
「コロッケパン2個作って。ソース多めで・・・」
Get out and get under the moon
中秋の名月
本年の名月は13夜。仲秋の満月には少々手前です。
とはいえ、秋は月光値千金。すばらしい輝きを見せてくれておりました。
ものの本によると帝都で中秋の名月を愛でることができる機会は
全体の3割弱だそうです。
テラスから月が見えることの出来る時間になるのを待ち、
探宙儀を持ち出して観測。
昨今の技術の進歩は自動追尾式のこういうメカがお子様のお小遣いレベルで
購入できるようになっています。
ありがたい事に感謝すると同時に、こういうメカに頼らないと名月をゆっくりと
追う事もできない夜空の事情は少々呪ってしまいますね。
探宙儀をのぞきこんでいたお子様が「お月様が写真とずれている」と・・・
「そうそう、少しずれるんだよね」
と嬉々として月の光学秤動について語るちすに
「わかんないーっ!」の一言で引導を渡して兎饅頭をほおばるお子様(笑)
ま、下手に興味をもたれてガリレイ先生のようにひねくれた性格に育たれても
なんですので(笑)
仲良く月と饅頭を愛でる事にいたしました。
♪月月に 月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月♪
この「月」は中秋にちなんて8つの月。
♪木の間より 洩り来る月のかげ見れば 心尽くしの秋は来にけり♪
こちらはきっと仲秋の月でしょうね。
♪窓の隙から差し込む月に 明るすぎると隠す顔♪
こいつぁ野暮な月(笑)
お子様に「お月様のごはん」をとせがまれたので、
翌日の朝食はライスオムレツ
(具入り卵ご飯を焼いたもの。銀座「煉瓦亭」の元祖オムライスのレシピです)
にしました。
白い皿にまとめたライスオムレツを上弦の月に見立て、
群雲の代わりにはトマトソースとパセリ。雁の群れには揚げタマネギと
我ながら粋な仕上がりと自己満足していたら、起き出してきたお子様。
「お饅頭の食べすぎで気持ちが悪い・・・」と
ま、そんなものです。
月に浸りながら奏でてみたい一曲のお話でした。
Spider lily
この時期、咲き誇る彩りといいましたら曼珠沙華。
全国各所に「見どころ」と言われる箇所がありますが、
気をつけて歩いていると、見どころを訪ねなくても、
至るところで見かけることができる花です。
街中をさまよっていると、背中の雑嚢から
写真機を取りだしたくなるような風景に出会うことも多々あります。
ちすの棲む地域では、牧野富太郎博士が植えられた純白の曼珠沙華が、
いかなる色にも染まらない信念を示し咲き誇っています。
曼珠沙華には「彼岸花」に代表される他にも、
「死人花・幽霊花・厄病花・地獄花・しびれ花」というような、
あまり良くない別名が多くあります。
それは、曼珠沙華のもつ毒性から来るものだそうです。
曼珠沙華は全草に有毒なアルカロイドを多く含み、ひとたび口にいれると
その毒は全身をまわり、最終的には神経の麻痺を起こし死に至ります。
救飢植物として毒抜きしたのちに食用とされた時代もありますが、
完全な毒抜きをすることは難しく、長期間摂取していると
しだいに毒物が蓄積してゆき中毒に至ります。
♪華やかに 全て獲りいる 彼岸花♪
曼珠沙華の花は、咲き終わった後は葉だけとなります。
その姿は他の食用の野草に似ているため、
誤食してしまうケースも多いそうです。
華やかな外見と、全身に含む毒
古人はその華やかさの内に含むものを見ながら「彼岸に至る花」
と名付けたのでしょう。
♪曼珠沙華 恐や 赤しや まだ七つ♪
「相思華」とこの花を呼ぶ箇所もあります。
これは曼珠沙華が、葉があるときには花はなく、
花があるときには葉がないことに由来します。
「花は葉を思い、葉は花を思う」という意味だそうですが、
どちらかというと「花は葉を知らず、葉もまた花を知らず」の方が
いいように思えてなりません。
花も葉も、それぞれに天数の求めるところに精一杯。
共に生するところき知らず。それもまた、命の理。
好と思うも嫌とするも見る者の傲に過ぎず、
ましてや花を愛でるに近よりて、足下の虫を縊るような輩には
命を語る価値も無し。
純白の曼珠沙華の戯術が牧野富太郎博士の幻想を観せてくれた、
暑い夕暮れでした。
♪曼珠沙華 恐や 赤しや まだ七つ♪
Volunteer
出張で訪ねた田舎町。
霧のような雨が風景をにじませている夕闇の道を宿を目指して歩く道すがら、
小さなお寺に「施餓鬼会」と書かれたものを見いだしました。
昨今、施餓鬼会と言うと盂蘭盆施餓鬼会が大半の中、彼岸施餓鬼会は珍しいなと、
平日の夜半にも関わらず門をくぐらせていただきました。
施餓鬼会のいわれは、釈尊の弟子の一人、女たらしで有名だった
阿難チャンが夜中の修業に居眠りこいているところに餓鬼が現れて、
「アンタなぁ、ようさんのおなごし相手に修業とか言うてつまみ食い
ばかししてたよってから、たいがいネにもたれてまっせー。
このままやったら餓鬼になったヒトらにくびり殺されまっせー」
とかって言われて、「えーっ、そんなんかなんがな」と釈尊に相談したところ、
「そやろ、しゃぁからほたえるんもえぇかげんにしときぃって言うたやん
しゃぁないし、仲間シぃにアタマ下げてみなに供養したりぃ」
と教示された事からとされています。
ま、実際は不良弟子の阿難チャンに手を焼いた釈尊が居眠りこいていた
彼の耳元でややこしい事を囁いたとかってオチでしょうけどネ(笑)
施餓鬼はよくボランティアと並べて評されます。
しかし、餓鬼に施すというこの「施」の根本にあるものは捨ですので
まったく違っています。
♪施すも無心 受くるも無心 施物も無心♪
喜捨する人の心は無心。受ける者も無心。施物も無心。
施は多い少ないではなく、その人なりの「応分の施」
ただ、ここで思うのがその「施」を受ける側です。
実際には「応分の施」程度では、
現在の苦境そのものを根治することは出来ないでしょう。
せいぜい目前の苦境がどうにかできる対処療法にすぎない「施」
でもその「施」のあることによって目前の苦境に対して何らかの
対応処置がなされたことは実感できる。
餓鬼の哀しいのは、そういう「施」すら自分の為だけの糧にしたいこと。
餓鬼が手にした「施」。
それが実は次の苦境の核となるかもしれない事は充分承知。
でも、今の幸せのためにはこの「施」を周囲に掲げたい。
そうして、無心であったはずの「施」が腐ってゆきます。
もちろんそもそもの「施」に悪心などはいっさいありません。
悪心は無いが結果として善とならない「施」・・・
結局、
どのような「施」であっても餓鬼にとっては傲りの材料であり、
餓鬼に「施」をすると言う事は、餓鬼の周囲を不幸にすると言う事なのでしょう。
「施餓鬼は餓鬼の為ならず・・・」
さてさて、当初のお寺。
そういうお話につきあっていただいたお礼にいくばくかの施餓鬼のお布施を
奉書に包んで「美味しいお茶でございました」と差しだしたら
お受け取りを躊躇されました。
「いかんなぁ、そんなんでは大きいお寺になれませんよ」
これもちすのような傲り高ぶる者に対する施餓鬼なんですから受領していただかないと・・・。
と、雨上がりの門を背にした夕暮れでした。
Leftover
出先で非常に興味深い昼飯を口にしました。
「トルコライス」
長崎・神戸・大阪在住の方は「何がおもしろいんだ」とお思いでしょう。
実はですね、あぁた。トルコライスって皆様方が住んでおられる地域限定の
ご当地料理なんですよ・・・。
さて、とにかくもメニューにトルコライスを発見したちすは、早速注文して
いったいどこの地域の仕様の物が出てくるのかをわくわくしながら待っておりました。
何故かといいますと、このトルコライスというのは名称は同じであるにもかかわらず、
地域によって全然違うものを呼んでいるのです。
長崎のトルコライスと言うのは、
ドライカレーとケチャップスパゲティとトンカツが一つのお皿に
どかんと雑多に盛り付けられた。
♪そうだっ おそれないで
おデブのためにっ!
デンプンと 脂肪だけがっ ともだちさー♪
という、「それゆけ!残飯マン」気分のレシピなんですが、
<(あぁーっ、長崎の皆様ゴメンナサイ・・・)
神戸のものは炒めご飯をお皿に盛り付けて、
その横にカレーのルー(ごはんにはかかっていないのがポイント)。
そしてカレーの真ん中には生卵が乗っているという、
「えぇいっ!どっちかにせんかぁ!!」状のもの。
そして大阪のトルコライスは
お皿にドライカレーのオムライスと野菜を盛り付け、
そのオムライスの上にはトンカツが乗っかっていて、
さらにソースまでどっちゃとがかかっているという、
「それゆけ!残飯マン2号」気分の・・・
<(ああっ、大阪からも苦情の声が・・・)
ちなみに「京阪神」とかって、なんでも「自分のところ風」を競い合う
三都ですが、なぜか京にはトルコライスがありません。
やはりやんごとない洛中人の方々は残飯などは・・・あわわわわわ
では、「オキュパイド オブ キョート」で名を馳せている滋賀はどうかといいますと、
オムライスのバリエーションは多いのですがトルコライスは見当たりません。
滋賀だけに「オゴトライス」なんてのも期待して検索しましたが
やはり無し<(絶対にないと思う)
さてさて、今回ちすが注文して出てきたトルコライスですが、
期待していた神戸風ではなく、大阪風のものでした。
ま、それはそれで充分に美味しいので満足したのですが、
子供の頃によく食べていた頃からのなぞ。
「なんで同じ名前のトルコライスで。大阪と神戸でこうまで外見が違うのか」
「そもそもがなんでトルコなんだ」
の疑問がふつふつと再発してきました。
またまた、いろいろと調べたところ、
なんと知らない間に長崎のトルコライスってのは数の力で圧倒して
「名物」に君臨していると言うことも知りました。
いやもちろん、神戸や大阪のトルコライスが長崎と比較して
不味いからってワケではありません。
そもそもが外見だけでも長崎よりは美味しそうな・・・(笑)
いや、大阪はどっこいどっこいかも・・・(爆)
これは思うに、食べ物が反乱している<(気持ちは判るが誤植)神戸や大阪に比べて、
カステラ入りチャンポンぐらいしか自慢できない長崎辺りでは
残飯マンであっても・・・
<(あわわわ・・・どんどん口がすべるーっ・・・)
さて、名物はいいとしてその内容。
レシピに関しますと総勢の2/3の得票を得ているのは「トンカツ乗っけ」です、
何と言っても2/3です。
これは民主主義に乗っ取って<(実情ふまえて誤記(笑))
考えますと、これは本流のようにも考えられます。
が、しかしこの料理の名称は「トルコライス」です。
そうですっ!トルコでは豚は食べませんっ!
ここにおいて、トルコライスの名称に対して
「トンカツ」を選択したというのは大きな誤りなのです。
ではなぜトルコなのか
ここでちすが子供の頃に親しんだ神戸風トルコライスを思い出してみました。
お皿の片隅に盛り付けられたチキンの炒めご飯。
炒めご飯を避けてお皿全体をおおうカレーのルー。
そしてカレーの真ん中には生卵が・・・
そうですっ!これは「新月旗」のデザインです。
これなら確かに「トルコ」であると言っても無理が<(あるあるっ)
と、いう事で「トルコライスはやっぱ神戸だなぁ」を再確認して、
美味しく昼食をすませたちすでした。
Going My Way
「我慢」
これと「頑張る」という言葉の大安売りが大嫌いなちすです。
なぜならこれらはよっぽどの覚悟がないと
使ってはいけない言葉だと思っているからです。
さて「我慢」
いくら言葉は生ものだからと言っても、ここまで無残な腐り方をした
言葉はないでしょうネ。
本来の我慢は「七慢」というヒトの思い上がりの心の1つで、
自分勝手な意見に執着する傲の事を言いました。
傲慢な心と耐え忍ぶ心
たまたまその態度が似ていた為に意味が混同されてしまったようです。
「七慢」
これはこんなものの事だそうです。
「慢」
他人と比較して自分は優れていると思うこと。
「過慢」
自分より優れた他人を自分と等しいと思うこと。
「慢過慢」
自分より優れた他人に対して自分がさらに優れていると思うこと。
「我慢」
自分勝手な意見に執着すること。
「増上慢」
真理が判ってもいないのに理解したと思いこむこと。
「卑慢」
はるかに優れた他人と比べて、自分は少ししか劣っていないと思うこと。
「邪慢」
自分に徳がないのに正しい者のように見せかけること。
うーみゅ・・・「我慢」の愛用者は「七慢」をしっかりと会得しているようですネ(笑)
ちなみに、欧州の言葉で「我慢」を的確に訳する言葉はないようです。
「剣か法か」の狩猟民族にとっては、
自分の意見に執着しつつ、恭順をしめすというようなことは考えられないのでしょう。
「我慢は無意味だ。戦うか従うか、それとも独りで斃れるかだ」
とは、古人のお言葉・・・
はい、古来よりネコ科の生物は独りで生きる術しか知りません(笑)
Right to speak none without the investigation.
本日は「日本のいちばん長い日」
最近、偽装クーデターって事でまたまた取り上げられていますネ。
んなもの今さら言われなくても・・・って思いと、
「そぅかぁ、こんなんがネタになるほど歴史は風化するかぁ」との感慨です。
さて、お子様連れて玉音盤のたどった道を歩きながら
ウンチク親父となった1日。
さすがに小学生はこんな酔狂にもまだおつき合いしていただけます(笑)
ちなみにこの時期ネタにされることの多い「玉音放送」ですが、
その1時間前に、蒋介石サンが
重慶中央放送局から発した放送がなぜあまり取り上げられないかが不思議です。
「諸君。帝国日本は無条件降伏した・・・(中略)・・・
私はこれが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、
帝国日本に対する一切の報復を禁止する。中華民族が伝統とする
至高至貴の特性は、『旧悪を念ぜず、人と善をなす』である。
決して日本人民を敵とせず、また敵人のかつての暴行に対して、
報復を加えないものとする」
あ、もちろんですが、煮ても似つかない「中共人民共和国」(笑)の事では
ありませんです。これは「中華民国政府」からのメッセージです。
さて、悲惨ごっこ、反省ごっこはブラウン管や液晶の向こうの世界におまかせするとして、
この敗戦の状況ってーのを数字で追っかけてみるとどんなものなのかと考えてみました。
1945年時概算。
大日本帝国人口:約7000万人
戦没者:約300万人
非戦闘員の死者:約100万人
傷兵:約100万人
非戦闘員の傷者:約300万人
集計すると
死者合計:400万人
傷者合計:400万人
となります。
これは国民全体の6%が亡くなられて、6%が怪我なさったという事で、
合計12%の方々が大変な目に遭われたということです。
つづいて「召集」
兵士として召集された方:約1000万人
当時の40歳までの成人男性の人口は約4000万人でしたから、
4人に1人の方が召集され、そのうち4人に1人の方が亡くなられた。
つまり、成人男性の16人にお1人が亡くなられたことになります。
さてさて、ここまでの数字を見られて
「えぇっ!そんなに少ないの」とかと思われた方もおられるかと思います。
こいつが数字のまやかしってヤツですネ。
「成人男性の16人にお1人が亡くなられる」事と
「成人男性の16人にお1人が理不尽な理由で亡くなられる」事は
大きく違います。
また、
「国民の6%が怪我する」という事も
「衛生状態が劣悪で、なんの医療機器も無い状態で国民の6%が怪我する」
という事であると考えないといけません。
例えば、言い方を変えちゃうと、
「敗戦時に国民の88%は死亡も怪我もしていなかった」
って事にもなっちゃうわけです。
「多くの人は。大抵の場合は。一般的には」・・・
これらの用語は体験的にそのほとんどに根拠はありません。
このような言葉を使われる方に対して、
「それは数字で表すとどのようなものになりますか?」
と質問すると窮される事が多々ありました。
また、よしんば根拠として数字を示されることがあっても、
論理的に破綻している場合が多く見受けられますネ。
「調査のないところに発言権はない」
こっちは「人民共和国」の総帥の好んだメッセージです。
Asperger syndrome
アスペルガー症候群という疾患があります。
日本語で、高機能自閉症などと言われる場合もあります。
ただし、ここでなにやら自閉症などと言う言葉がはいると
とんでもないような障害のようにおもわれますが、この疾患。
どうも社会生活においてはさほど支障ない、場合によっては専門分野において
ぬきんでた業績を残したりしますので、症候群という言葉自体にも
なんかいいのかなぁってところもあり、「アスペルガー気質」なんてなほうが
いいと思うところもあるんですが・・・
さて、ではではアスペルガー症候群とはどんなヒトであるか。
書物や電脳掲示において多くのチェックリストがありますので
代表的なものを拾ってみました。
普通の人でもは20〜30個ぐらいは当てはまると思います。
もちろんちすはパーフェクトに近く・・・(爆)
・何かに熱中してると周りが見えなくなってしまう。
・性懲りも無く固執を繰り返してしまう。
・こうでないと気がすまないと言うこだわりがある。
・他人の言う事が理解出来ない事が多い。
・曖昧な表現の理解が苦手だ。
・無表情だ。
・じっとしているのが苦手だ。
・思った事をすぐに口に出してしまう。
・自分が興味のある事なら他人に積極的に聞く。
・冗談や皮肉が通じない。
・マンネリを好み変化を嫌う。
・ごっこ遊びが苦手だ。
・予想外の出来事が起こると凄く動揺してしまう。
・普通の人は集めないような物をコレクションしている。
・テレビ番組はドキュメンタリー番組やバラエティ番組が好きだ。
・他人に触られる事を嫌い、触れるとビクッとする。
・他人から言われた事をいつまでも気にしてしまう。
・計画的に行動するのが苦手だ。
・思いついた事を直ぐに行動に移すが、直ぐに燃え尽きてしまう
・周囲の空気を読むのが苦手だ。
・自分のしている事を他人に妨げられる事に強い抵抗を感じる。
・自分の非を認めるのが苦手だ。
・気分がコロコロ変わる。
・しばしばヒステリーを起こす。
・寝つきが悪い。
・自分が他人からどう見られているのか気になる。
・同じ事を何度も言う。
・過去のトラウマを突然思い出してパニックになる事がある。
・他人の顔を区別するのが苦手。
・「変わった人」とか「個性的な人」と言われる。
・他人を尻に敷いたり、逆に媚を売ったりするのが嫌い。
・服装や髪型・生活パターン等に強いこだわりを持っている。
・他人と喜びや悲しみを分かち合う事が出来ない。
・集中力が無く、すぐに途切れてしまう。
・ちょっとした事でも直ぐに落ち込んだり、傷付いたりしてしまう。
・感想文はあらすじばかり書く。
・友達がいない又は極端に少ない。
・1人でいても孤独を感じない。
・運動神経が鈍く特に球技が苦手だ。
・人の目を見て話すのが苦手だ。
・ひとり言が多い。
・興奮すると、どもったりろれつが回らなくなる。
・方向音痴だ。
・友達を作ろうにも作り方が分からない。
・刺激物が苦手だ。
・小中高と何処かで不登校(あるいはそうなりかけた)の経験がある。
・いじめられっ子である(だった)
・悪気は無いが他人を傷つけたり怒らせてしまう事がある。
・実年齢より若く見られる事が多い。
・歩き方や走り方がぎこちない。
・幼少期に図鑑1冊丸暗記する等して周囲を驚かせた経験がある。
・幼少期は他の子と遊ぶ事が殆ど無かった。
・同年代の人と波長が合わず、年上の人にリードされるか年下の人といる方が良い。
・普通の人は興味を持たないような事に興味がある。
・深く感動することが無い。
・ある分野に関しては非常に詳しい。
・待つ事が苦手だ。
・赤信号を頑なに守ったりと変に律儀な面がある。
・融通が利かない。
・全般的に不器用なのだがゲームや料理が上手い等、一部では器用だ。
・自分が他人と何か違うと感じた事がある。
・騒音が苦手だ。
・ものまねが得意だ。
・理科の実験や野外実習等でまごつく事が多い。
・難しい言葉を使いたがる。
・何かしていてフッと気が抜けたように無気力になる事がある。
・違う事を同時にするのが苦手だ。
・自分の興味のある事を他人におかまい無しに話してしまう。
・他人の気持ちを推し量る事が苦手だ。
うーみゅ・・・
ミュージシャンの大半はプロアマを問わずアスペルガー症候群ですね(笑)
ちなみに、アスペルガー症候群に似た名前で
アスペルギルス症候群という難病もありまして、
こいつは米をアスペルギルスオリゼを使って醗酵させた飲み物を毎日摂取しないと、
コミュニケーションがとれなくなり、ひどい場合には指が震えたり、
ちゃぶ台をひっくり返したりします。
これもミュージシャンの大半はプロアマを問わず・・・(爆)
Baron von Muenchhausen
子供の頃ジャーマンシェパードと暮らしていました。
もちろん両親も居ましたし、その他にネコとカラスとインコも居たのですが、
ま、とにかくジャーマンシェパードもいたわけです(笑)
彼には「Baron(バロン)」というえらく大層な名前がありました。
いや、なにもやんごとなき男爵家の家柄のイヌなどというワケではありません。
このバロンと言う名を名づけたのはちす父だったのですが、
その理由はこのイヌ。散歩に連れ出そうとするたびに病気を装う。
よーするに仮病をつかって嫌な事から逃げ出そうとする
とんでもない性格のイヌだったのです。
そこで、独逸の血筋のイヌということもあってちす父が付けた名が
「Baron von Muenchhausen」-「ほら吹き男爵」だったのです。
このバロン君。まったく見事な「仮病」を使いまして、
散歩に連れ出そうとするとぐったりとして横になり。
荒い息をつきながら潤んだ目で見上げるしぐさは
本当になにやら体調が悪いのではないかと思ってしまいました。
ところがここにちす父が登場して一声怒鳴るとあら不思議。
仮病は通用しないと悟ったバロン君。すっくと立ち上がり、
さっきまでの様子はどうしたことかと言う感じで散歩に出るのでした。
この懐かしい仔のことをなぜ思い出したかといいますと、
彼の名のもとになった疾患がヒトに存在するという事を知ったからです。
その名も「ミュンヒハウゼン症候群」
ヒト医をやっている知人によれば、シッポたちと違い、
シッポのないバロン様たちはいささか厄介なもののようです。
さてさて、
世の中には、病気になりたがるヒトというのがいるそうです。
なぜなら、病気になれば周囲の人が心配してくれたり、
場合によっては身の回りの世話をしてくれるからです。
たとえ、誰からも相手にされないような孤独なヒトであっても、
「病気である」と言えばそれなりにいろいろと周囲が気にかけてくれます。
しかし、体がどこも悪くないようなときにはどうするか。
ここに、ミュンヒハウゼン症候群と言われている、
孤独感や寂しさを癒すために、「病気のふりをしてしまうという病気」
が存在するのです。
もちろん前述のバロン君のような単なる仮病とはレベルが全然違います。
それはミュンヒハウゼン症候群のヒトには
自分が病気のふりをしているという事が日常になっているからです。
心の空洞を埋めるために疾患を作り出すことが、
いつしか自分の中ではあたりまえのものとなってしまっています。
さて、作り出す疾患ですが、
もともとがこれは他人の関心を呼びたいと言う精神的な欲求から
症状を作り出していますから、その内容には流行があります。
昨今は外傷性・内臓性疾患よりも精神性疾患に人気が集まっているようです。
彼等は、奇想天外ではないが稀有な経験を語り、
あたかもそれが原因であるかのような疾患・症状を示し、周囲の関心を引こうとします。
それでもまだこういう場合はマシなほうでして、
もっとたちの悪い疾患に「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのがあります。
これは自分ではなくて他人を病人に仕立て、それを「世話する者」
としての立場をとることで、間接的に周囲の関心を集めようとする疾患です。
多くの場合は母親が子供を病人に仕立てます。
この場合、疾患の説明をするのが本人ではありませんから、
その嘘を見抜くことは非常に困難です。
たいていの場合、ミュンヒハウゼン症候群のヒトたちは頭がよく、
自分が取り扱おうと思う疾患については良く知っています。
従ってその症状の話は非常に現実味があり、
話を聞いてくれるヒトがいると、どんどん内容が細分化してゆき、
話をしているうちに自分もその世界にのめり込んでしまって、
どこまでもとめどなくすすんでゆきます。
通常、肉親と言うのは子供の不利益になる事は嫌がるものです。
従って、無関係な他人に対し、
積極的に子供の疾患についての話などをしようとはしません。
専門家の前でのみ心のうちを開くのが普通です。
それがあたかもドラマを再現するかのように、
聞くものに興味深い話がどんどんと広がってゆくのです。
こういう母親にとって子供の存在とは、
他人の関心を呼ぶための道具にしか過ぎません。
なぜこういうことが平気でできてしまうのか。
それは本人は心の寂しさを埋めるために必死であるからです。
誰かにかまってもらいたいという痛々しいほどの寂しさや
孤独感からこういうことをするのです。
それは彼らの中に、
誰も自分の事をかまってくれるヒトがいないとか。
誰も自分の事を本気で心配してくれるヒトがいないとかという。
内なる声がつねに聞こえているからです。
従って彼等にとっては自分を気にしてくれるヒトたちだけが頼りなのです。
そして、病気でありさえすれば、周囲の人たちは自分に関心をもってくれる。
優しい声をかけて協力してくれるという妄想に獲りつかれています。
しかし、いくら巧妙と言っても、所詮は嘘です。
時間が経つにつれ、どうしても不自然な事や結果が出て来ます。
そして、周囲も次第に疑いの目で彼等を見るようになっていきます。
そこで、問いただしたり、指摘したりするのですが、
彼等は逆に周囲の無理解をなじったりします。
ま、それが
「何をおっしゃいます。私は嘘などつきません。
私は医者も認めた間違いのない狂人であります」
とかってお話でしたら理解も出来ますが・・・
さて、
ここで困った事になるのが世にはびこるトンデモ療法であります。
トンデモ療法は疾患が治ることは望んではいません。
だらだらと症状が続いていること。そして患者とその家族が
トンデモ療法をいつまでも信仰し続けてくれること。
そのことがトンデモ療法にとって望むべき方向なのです。
もうこうなるともはや止まる術はありません。
疾患が認められることを望む者と疾患が続くことを求める療法。
トンデモ療法にはまった彼等は、排水口に流れる水が渦を作るように、
周囲の人も渦の中に巻き込み、吸い込まれてゆくのです。
かつて一緒に暮らしていたシッポのあるバロン君は仲良くしていると
心が癒されましたが、
世のシッポのないバロン様たちは、仲良くしていると最期には、
一緒に風車に突撃をしなくてはいけなくなってしまうようです。
It is not saved in the believed one
ちすの「おこずかい」のネタに、皮膚炎治療薬がらみの利権があります。
そんな「副業(笑)」の関係で、
皮膚系疾患治療を食い物にした、いわゆる「エセ心療医学」を拝見してきました、
今回の演目(笑)は「精神的なストレスが物理的な疾患となる・・・」とかって、
もはや生物学の論理を超越したご説・・・
その上、その精神的なストレスには
大脳が知覚していない過去の深層的な記憶によるとかって・・・
「をいっ、お前の言う大脳ってのはレジスター領域が記憶の新陳代謝をする器官なのか?
それともお前さんの身内はレジスター領域だけで生きているのか?」
ってやつですにゃ(爆)。
生物学勉強してから人前に立て!
と、最初から目一杯うさんくさいお話。
ご説によれば人のストレスはそれまでの生活において、キーとなる事象があったからであり、
(かつて精神医学で言われた「思い残し症候群」のいい所取りのようです)
それを「克服」することで、ストレスからくる物理的有害事象を解決するというふれこみ。
臨床医学の現場において「ストレス」なるものと物理的な病的状態についての
関係は肯定などされていません。
もちろん得手勝手な「克服」なるものが複雑な精神的問題を解決するという事などは
毛頭考えられませんがホント世にこのテのトンデモ療法は尽きませんネ
梅雨時になるとよく出てきますので、
もしかするとあの連中はカビとかキノコの1種かもしれません(爆)
と、いう事で絨毯爆撃をくらわしてきたちすでした。
さてさて、
そもそもが、このテの療法。
なんぞ新たな療法であるかのように主張されていますが、
既に発表された考え方の焼き直しにすぎません。日常的な表現で言えば、
「昔、辛い経験をしたから苦しんでいる。そいつが病的疾患
(今回の場合は皮膚疾患)の原因である。だからそれが癒されれば楽になる」
などとという、理論でも何でもないただのヒトの思いにすぎないのです。
少し整理して考えてみましょう。
まず原則として心理療法は「医学療法」であり、あきらかな医療行為であります。
医療行為である限りは、科学的論証によってその効果が実証されていなくてはなりません。
しかし、医師の資格のないシロウトが主張する。トンデモ療法といわれるものの中に、
科学的な検証に耐えられるものは皆無と言っても過言ではありません。
また、トンデモ療法が実施されている現場では、
その治療的効果が曖昧なままであるか、または検証されずに実施されているのが現実です。
医療というのはその効果が明確に示され、それが提供される際には、
根拠がきちんと明らかにされていなければなりません。
これが根拠に基づく実践の考え方です。治療効果が明確になっていない療法は、
あくまでも医師の判断によって保健医療の実施の助けとなる可能性のある場合に
併用して用いられる佐薬的な利用法です。ありていに言えば、
シロウト主体のトンデモ療法に効果などは期待できないという事です。
もしも、トンデモ療法に臨床疫学的評価を求めるのであれば、
その療法を行う際に、その治療の目標とすることを評価するべきです。
無作為抽出による対照試験を実施し、その結果として優位性が証明されて初めて、
その療法は効果があるといえる事となります。
このように事象を考えると、トンデモ療法にはその効果の根拠は何一つ見い出されていません。
よしんば効果があったと主張される人がいてもそれは、
自然治癒というファクターを含めた結果の1つにすぎず、
決して効果全体を保証するものではないのです。
「やっタ」「治っタ」「良かっタ」のような「三タ治療」は所詮まじないの領域です。
トンデモ療法によって疾患が治癒したケースがある事は、
「治った例もある」に過ぎないのです。
しかし、その療法を信仰する方々はその治療の効果を大げさに評価し、
あたかも、症状の軽減が100%その療法によるものであるかのように言われます。
It is not saved in the believed one・・・の2
これはただの宗教です。
医療行為は治療行為であって宗教行為であってはならないのです。
トンデモ療法を「信仰」し、その布教に努めようとする自称「治った患者代表」
彼等・彼女等の発表する「治療体験」には、「この療法こそが我々を救う!」
などといったうたい文句が掲げられていて、それを信念とされています。
また、その療法がシロウトのトンデモ療法であることを指摘しても、
信仰にめしいた信者達は「それは理解が追いついていないだけである」とか
「施政が理解していない」などというあたかも「施政に虐げられた正当」
のように主張されます。
よく引きあいに語られるのが「施政も間違いをする」
施政が間違った数よりも、トンデモ療法によって有害事象を被った事例の方が
いかに多いかという事をまったく理解していない、というか信仰が耳をも塞いでいます。
従ってこういう人々にトンデモ療法の批判などしようものなら、
「あなたは救済の邪魔をするのか!」
「この素晴らしい治療がわからない者には何を言っても無駄だ」などという
論争にすり替えられてしまいますから、説得するのは、困難な事です。
そもそもが、救済の為に最大の障害となっているものはこのような狂気に取り憑かれた
自分自身の存在であると言う事にすら気づいていません。
立派な宗教家の説教やその方との面談は、病気や悩みの克服に役立つと言われます。
また宗教儀式に参加することが同様の効果をもたらす場合も見受けられます。
時にこうした宗教家の聴き方、話し方は、
心理療法の技法と酷似していることが指摘されたりもします。
また、宗教儀式の中には心理的な影響を意図した方法を取り入れている、
あるいは似ているものがあると言われたりします。
実際、禅などはリラクセーションの一方法である筋弛緩法他の呼吸法と似ています。
しかし、宗教と医療はきちんと分けられるべきです。
医療行為は治療行為であって宗教行為であってはならないのです。
初めに結果ありきの「トンデモ療法」
通常、治療の出発点になるのは「この疾患の症状を緩和させるにはどうすればいいか」
「この疾患の原因となるものはなんだろうか」という疑問からはじまります。
医師は対象の疾患についての文献の中からいくつもの症例を探し、
そこから帰納的に療法を見つけ出します。
そして、症例を検討している間にみつけだした療法に反する症例が出てきたら、
当初思っていた治療方法を変えて、さらに良い療法を求めてゆきます。
あくまで「見出した根拠から納得して治療を導く」のです。
ところがトンデモ療法は、一足飛びに「これは○○が原因である」
という結論を決定します。甚だしきに至っては、「○○の無い疾患はあり得ない」
という具合に、結論そのものが治療の動議になっていたりします。
そして一度「決定」した結論は確固として譲りません。
結論にふさわしい根拠だけを探し、都合の悪い事例は見なかったことにするか、
論理的に破綻した苦し紛れな言い訳をすることになってしまいます。
要するに「初めに結論ありき」なのであって、その結論は
「なりふり構わず守り抜かなければならない絶対なもの」なのです。
これは非常に危険な要素を含んでいます。
もしも、症状を訴える疾患が精神的な要因によるものではなく、
物理的な疾患に起因するものであったとしたら、その発見を遅らせるばかりか、
場合によっては患者の生死にかかわる事になるからです。
日本国憲法は信教の自由を保証しています。
「宗教」を信仰するのは個々の自由です。
聖書や仏典に非科学的なことが書いてあるからといっても、
それを「宗教」として信仰する人々が文句を言われる筋合いはありません。
しかし宗教と医療を混同して、宗教モドキの療法を「布教」することは許されていません。
論理と調査。検証と実証
治療は科学的でなくてはなりません。
「信じる者ほど救われない」
信じるべきものは論理の内にしかありえません。
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